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東京高等裁判所 昭和49年(ネ)1773号 判決

目  次

当事者の表示

主文

事実

第一 当事者の申立

一 控訴人・附帯被控訴人

二 被控訴人・附帯控訴人

第二 当事者の主張

一 控訴人

別添(一) 教科書検定制度の憲法・教育基本法違反

同 (二) 本件検定処分の適用違憲性

同 (三) 本件検定処分における検定権限濫用の違法

同 (四) 被控訴人の損害賠償義務

同 (五)の一、二 本件各検定処分における個別箇所の原稿記述の内容、検定意見、検定経過等

二 被控訴人

別添(六) 教科書検定制度の概要、法的性格、合憲性・適法性

同 (七) 本件各検定の適法性

同 (八) 本件各検定における申請原稿の欠陥とその具体的理由

同 (九) 別添(五)の一について

第三 証拠関係

理由

第一 教科書検定制度と本件各検定処分に至る経緯

一 控訴人の経歴及びその著作

二 本件各検定処分に至る経緯

三 教科書検定制度の沿革

第二 現行教科書検定制度の概要

一 教科書の意義

二 教科書検定の権限

三 教科書検定の組織

四 本件各検定処分当時の検定基準

五 教科書検定の手続と運営

第三 本件各検定の経過

一 昭和三七年度検定について

二 昭和三八年度検定について

第四 教科書検定制度の違憲違法性

一 教育の自由・自主性違反の主張について

二 憲法第二一条違反の主張について

三 憲法第二三条違反の主張について

四 法治主義・憲法第三一条違反の主張について

五 結語

第五 本件検定処分における適用違憲の主張について

第六 本件検定処分における検定権限濫用の違法

一 控訴人の主張の要旨

二 当裁判所の総論的判断

三 昭和三七年度検定における裁量権濫用の違法

1 教科書検定法令に内在する裁量限界踰越の違法

(一) 「正確性」における裁量権濫用の主張について

(二) 「内容の選択」における裁量権濫用の主張について

(三) 「組織・配列・分量」における裁量権濫用の主張について

(四) 「表記・表現」における裁量権濫用の主張について

(五) 「内容の程度等」「使用上の便宜等」及び「造本」における裁量権濫用の主張について

2 平等原則から導かれる裁量限界踰越の違法(その一平等原則違反)の主張について

3 平等原則から導かれる裁量限界踰越の違法(その二行政行為の一貫性違反)の主張について

四 昭和三八年度検定における裁量権濫用の違法の主張について

五 結語

第七 結論

別紙 訴訟代理人目録(一)(控訴人)

訴訟代理人目録(二)(被控訴人)

指定代理人目録(被控訴人)

控訴人・附帯被控訴人 家永三郎

被控訴人・附帯控訴人 国

代理人 大藤敏 長島裕 中島重幸 橘田博 村松俊夫 秋山昭八 石原豊昭 鈴木稔 平井二郎 ほか六名

主文

本件控訴を棄却する。

附帯控訴に基づき、原判決中附帯控訴人(被控訴人)敗訴の部分を取り消す。

前項の部分に関する控訴人(附帯被控訴人)の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも控訴人(附帯被控訴人)の負担とする。

事実

第一当事者の申立

一  控訴人・附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

1(一)  原判決を次のとおり変更する。

(二)  被控訴人は控訴人に対し、金一八七万五七五八円及びこれに対する昭和四〇年六月一九日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  本件附帯控訴を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行の宜言

二  被控訴人・附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

主文第一ないし第四項と同旨

第二当事者の主張

一  控訴人

1  本件当事者の地位、本件事案の概要、被控訴人の不法行為とその違憲違法性のうち本件をめぐる全般的事情(教科書検定の実態とその問題性)、教科書検定制度のしくみに関する主張については、原判決の事実摘示(原判決四頁三行目から三九頁一〇行目まで)を引用する(但し、原判決四頁七行目の「今日まで」を削除し、同三六頁八行目の「總数教」を「総数約」と改める。)。

2  教科書検定制度の違憲違法性及び本件各検定処分の違憲違法性について

(一) 控訴人は、そもそも教科書検定制度は、違憲かつ違法であると主張するものであり、その理由は下記のとおりである。すなわち、教科書検定制度の根拠、機構、手続、基準等を定める学校教育法第二一条、第五一条、第一〇六条、文部省設置法第五条第一項第一二号の二、第二七条、教科用図書検定調査審議会令、文部省設置法施行規則第五条の二、教科用図書検定規則、教科用図書検定基準等の諸法令は、憲法及び教育基本法によつて保障されている教育の自由を侵害するとともに、憲法第二一条、第二三条並びに法治主義・憲法第三一条に違反するものであつて無効であり、更に右諸法令のうち行政立法にかかるものは、上位規範である教育基本法第一〇条に違反し、無効である。したがつて、本件各検定処分は違憲、無効の法令を根拠とするものであるから違法であることに帰する。

教科書検定制度が違憲違法であることについての主張の詳細は、別添(一)(第一章 教科書検定制度の憲法・教育基本法違反)記載のとおりである。

(二) 仮に、教科書検定制度自体が直ちに憲法・教育基本法に違反するといえないとしても、本件各検定処分ないし検定意見、すなわち、(1)控訴人の昭和三七年度申請原稿に対して昭和三八年四月一一日に告知された不合格処分に際し、別添(二)において摘示する検定意見各指摘箇所についてそれぞれ不当な不合格理由を付した行為及びこれに基づいてなした不当な不合格処分、(2)昭和三八年度の検定に当たり、昭和三九年三月一九日に告知された条件付合格処分につき、同日及び四月一二日、二〇日にされた修正要求のうち、別添(二)において摘示する指摘箇所についての修正要求は、憲法、教育基本法によつて教科書執筆者に保障されている教育の自由を侵害し、また、憲法第二三条、第二一条、第二六条、第一三条に違反する。したがつて、本件各検定処分ないし検定意見は違法である。

その詳細は、別添(二)(第二章 本件検定処分の適用違憲性)及び別添(五)の一、二記載のとおりである。

(三) 仮に(一)、(二)の主張がいずれも理由がないとしても、本件各検定処分ないし検定意見(その意味は前記のとおり)には、法により検定権者に付与された裁量の限界を逸脱し、検定権限を濫用した違法がある。

その詳細は、別添(三)(第三章 本件検定処分における検定権限の濫用)及び別添(五)の一、二記載のとおりである。

3  文部大臣の故意、過失及び損害の発生について

2(一)ないし(三)に述べた文部大臣の違法な検定処分ないし検定意見は、文部大臣及びその補助者であつた当時の文部事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同審議官妹尾茂喜、同局教科書課長諸沢正道、同課教科書調査官渡辺実、同村尾次郎、同貫達人らがその検定権限を行使するに当たり、右各検定処分及びその根拠法条である学校教育法第二一条及びその下位法令が違憲違法であることを認識し、又は認識すべきであつたにもかかわらず、これを怠つた故意又は過失によりこれを強行したものであり、控訴人は、その結果被つた、昭和三七年度検定については、前記各指摘箇所につきそれぞれ違法な不合格理由を付されたこと及びそれに基づく不合格処分による精神的損害と前記各指摘箇所につきそれぞれ違法な不合格理由を付されたことに基づき不合格処分がなされたことによる経済的損害の賠償を、昭和三八年度検定については、前記各指摘箇所につきそれぞれ違法な修正要求をされたことによる精神的損害の賠償を求めるものであるところ、その額は、精神的損害については、少なくとも慰藉料に見積つて合計一〇〇万円を下らないものであり、また、経済的損害については、右は、昭和三七年度の不合格処分により昭和三九年度に新(五)訂版「新日本史」を発行することにより得られるべきであつた印税収入を得られなかつたことにより失つた利益(印税相当額)により算定すべきものであるところ、右金額は一〇四万三四〇九円であるから、控訴人が原審以来経済的損害として請求している八七万五七五八円を下らないことが明らかである。

その詳細は、別添(四)(第二章 本件検定処分における故意、過失について、第三章 控訴人の損害)記載のとおりである。

二  被控訴人

1  本件当事者の地位、本件事案の概要、被控訴人の不法行為とその違憲違法性のうち本件をめぐる全般的事情(教科書検定の実態とその問題性)、教科書検定制度のしくみに関する控訴人の主張に対する認否、反論については原判決の事実摘示(原判決七五頁二行目から九九頁八行目まで)を引用する。

2  教科書検定制度の違憲性、違法性に関する控訴人の主張に対する反論は、別添(六)記載のとおりである。

3  本件各検定処分ないし検定意見の違憲、違法性に関する控訴人の主張に対する反論は、別添(七)(第六章及び第七章を除く。)ないし(九)記載のとおりである。

4  文部大臣及びその補助者の故意、過失及び損害の発生に関する控訴人の主張に対する反論は、別添(七)第六章及び第七章記載のとおりである。

第三証拠関係 <略>

理由

第一教科書検定制度と本件各検定処分に至る経緯

一  控訴人の経歴及びその著作

控訴人が、昭和一二年東京帝国大学文学部国文学科を卒業して以来、日本史の研究に従事し、昭和一六年以降新潟高等学校教授、昭和一九年以降東京高等師範学校教授を歴任し、昭和二四年学制改革に伴い、以後東京教育大学教授の職にあつたこと、その間、昭和二三年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を授与され、昭和二五年には、論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、著書には、右のほかに日本史及び歴史教育に関するものとして、「日本道徳思想史」、「日本近代思想史」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「歴史と現代」など約三〇冊があること、控訴人が、昭和二一年に戦後初めて国定の日本史教科書が編纂されるに当たつて文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」の編集に従事し、昭和二七年以降は三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆、改訂を行つてきたことは、いずれも当事者間に争いがない。そして、当審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人は、昭和五二年に東京教育大学教授を停年により退職し、翌昭和五三年中央大学教授となり今日に至つたものであることが認められる。

二  本件各検定処分に至る経緯

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決一四二頁末行から一四八頁九行目まで)を引用する。

1  <略>

2  同一四六頁九行目の「教科書検定規則」を「教科用図書検定規則」と改める。

3  同一四七頁六行目の「<証拠略>」を削除し、同七行目の「五訂版原稿」と「につき」との間に「<証拠略>」を挿入する。

4  同一四八頁三行目の「若干の修正を加えて」を「若干の修正を加えた新原稿(<証拠略>)につき」と改める。

三  教科書検定制度の沿革

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決一四八頁末行から一七二頁一行目まで)を引用する。

1  <略>、同一五三頁七行目のの「小学校図書目録」を「小学用書目録」と各改める。

2  同一五五頁八行目の「採用し、」に続けて、「それぞれにつき『小(中)学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ルヘシ』との規定が設けられ、次いで、」を、同頁末行末尾に続けて、「その後、小学校令、中学校令はそれぞれ全部改正されるに至つたが、検定制度はそのまま維持され、明治三二年に全部改正された中学校令(同年勅令第二八号)第一二条及び同年に新たに制定された高等女学校令(同年勅令第三一号)第一三条には、原則として、文部大臣の検定を経た教科書を使用すべき旨の定めのほか、それぞれ『中学校(高等女学校)教科書ノ検定ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム』との規定が置かれた。」を各加え、同一五六頁一行目冒頭の「また」を「そして」と改め、同八行目の「勅令第三六号」に続けて「、前記中学校令及び高等女学校令は、本令によつて廃止された。」を各加える。

3  同一七〇頁一〇行目から同一七一頁一行目までの三行を削除する。

第二現行教科書検定制度の概要

一  教科書の意義

原判決の理由説示(原判決一七二頁四行目から一七六頁九行目まで)を引用する。

二  教科書検定の権限

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決一七六頁末行から一八〇頁四行目まで)を引用する。

1  原判決一七七頁末行の「されている。」に続けて「これは、高等学校に例をとれば、同法施行規則第五八条により、検定済教科書又は文部大臣が著作権を有する教科用図書のない教科について、当該高等学校設置者の指定により、適切な教科用図書を使用する場合をいうのである。」を加える。

2  同一七九頁六行目の「第三の六」を「第四の四の3」と改める。

三  教科書検定の組織

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決一八〇頁六行目から一八八頁七行目まで)を引用する。

1  原判決一八一頁二行目の「一三条第一項」に続けて「、但し、本件検定当時は一名」を、同六行目の「本件」の前に「<証拠略>によれば、」を各加え、同八行目の「であつた。」を「であつたことが認められる。」と、同末行の「第五条第三項」を「第五条の二第三項」と各改める。

2  同一八四頁三行目の「調査し、」に続けて「及び」を加え、<略>、同一八六頁末行の「一二〇名以内とし」を「昭和三七年度検定当時は一〇〇名以内、同三八年度検定当時は一一〇名以内とされ」と改め、同一八八頁五行目の「一五名であつたこと」に続けて、「(但し、前記審議会令の定めに照らすと、右証言は、昭和三八年度検定時の状況について述べるものと認められる。)」を加える。

四  本件各検定処分当時の検定基準

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決一八八頁九行目から二〇一頁六行目まで)を引用する。

1  原判決一九〇頁三行目から四行目にかけての「教育の目的および方針などに」を「当該学校の目的と」と、同八行目の「偏つた」を「かたよつた」と、「採り、また、これによつて」を「とり、またこれによつて」と各改める。

2  同二〇一頁六行目と七行目との間に一行を設けて、「以上の事実は、当事者間に争いがない。」を加える。

五  教科書検定の手続と運営

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決二〇一頁八行目から二二六頁七行目まで)を引用する。

1  原判決二〇三頁末行の「完了するものとされ」を「完了するものとされているところ」と改める。

2  <略>

3  同二〇六頁七行目冒頭に「(1)」を付し、二一七頁一行目から二一八頁一行目までを次のとおり改め、二一八頁二行目冒頭に「(4)」を付する。

「(2) 右内規によると、検定の際の評定は、絶対条件については合、否いずれかに判定されて、合格するためには三項目のいずれもが合と判定されなければならず、また、必要条件については、検定基準所定の第一ないし第九項目が内規別表1所定の七つの評定尺度によつて検討されたうえ、欠陥度の最も高い「×」記号が付された項目があるときは他がいかによくてもその項目の欠陥だけで全体として不合格となるものとされ、「×」記号が付された項目がないときは、総点を一、〇〇〇点とし、これを同内規別表3のとおり配点して、これから後記(3)のとおり同内規別表4の評定記号に応じて減点し、第一ないし第九項目の評点が八〇〇点以上のものを合格とするが、これに満たないものでも第一〇項目(創意工夫)の評点を加算して八〇〇点以上となるときはこれを合格とすること、また、申請原稿に対する総合判定は、絶対条件の三項目および必要条件のいずれもが合と判定されたものを合格とするが、更に、原稿に訂正、削除又は追加など適当な措置をしなければ教科用図書として不適当と認める事項がある場合にこれをA意見として指摘し、これに必要な措置を加えることを条件として合格と認めることができ(一般にこれを「条件付合格」と呼んでいる。)、なお、右の条件付合格の場合にA意見のほかにB意見が付されることがあるが、右意見は、訂正、削除又は追加などした方が教科用図書としてよりよくなると認める事項について申請者の参考までに伝えるため指摘されるものとされているというのである。

しかしながら、検定実務上、条件付合格に至るまでのB意見の取扱いは次のようにされている。すなわち、B意見のなかに評定記号の決定に当たり、減点の対象とされるいわゆる「欠陥B」と減点の対象とはされないが修正した方がよりよくなるいわゆる「ベターB」との区別があり、欠陥Bは、例えば総量約三〇〇頁の原稿について必要条件中のある項目に関し三〇ないし四〇箇所にも及ぶB意見(欠陥B)が付されたような場合には、評点すなわち評定記号の決定に当たり減点の対象として考慮される。但し、評定の結果、条件付にせよ合格すると、その後の取扱いでは、B意見はベターBについてはもとより、欠陥Bの性格をもつものについても修正指示に従つて修正する方がより望ましいとされるが、修正するかどうかは最終的には著作者または申請人の意思に委ねられ、これを修正しなくても検定不合格となることがないのは、前記内規の定めのとおりである。

(3) 具体的な評定の基礎となる評点の算定方法は、前記内規の別表3に定める第一ないし第九の各項目に配点された点数から評定記号(別表4)に応じて減点していくいわゆる減点方式がとられており、評定記号は各欠陥箇所に付した減点を第一ないし第九の各項目ごとにとりまとめ、その数値を申請原稿の総頁数で割つて得た比率を基準として決定される。もつとも、この計算は指摘された欠陥箇所のうちA意見のみを対象とするのが原則であり、ただB意見(欠陥B)も前記のように一原稿中に多数認められるようなとき、とくに、評定記号をいずれにするかボーダーラインにあるような場合に減点の対象とされ、一段階下の評定記号を付されることがありうるのである。

ところで、各評定記号を決定するにつき評点を計算する際、A意見一個につき何点減点するのか、B意見(欠陥B)がいくつあれば何点減点されるのかこれを直接規定したものは見当たらない。運用としては、欠陥Bについては、前記のとおり総量三〇〇頁程度の教科書であれば三〇ないし四〇個の欠陥B意見があることにより減点の対象とされ(但し、その場合B意見一個につきどれほど減点されるのかはこれを明確にしえない。)、A意見については一般的には一個につき最高一〇ないし一五点、社会科の場合では最高一二、三点、最低一点、おおむね二又は三点減点されるのが通例である。」

4  同二一八頁四行目から五行目にかけての「原則として」を削除する。

5  同二二五頁二行目の「発行者による」の前に「<証拠略>によれば、」を加え、同五行目の「(証人渡辺実の証言)」を削除する。

6  同二二六頁二行目の「同年五月頃」を「その年の五月頃」と改める。

第三本件各検定の経過

一  昭和三七年度検定について

原判決の理由説示(原判決三二五頁四行目から三三六頁一行目まで)を引用する(但し、同三二六頁八行目の「<証拠略>」の次に「、<証拠略>」を加え、同三二八頁五行目の「作成したが、」を「作成した。」と、同三二九頁八行目の「4訂版」を「四訂版」と、同三三三頁五行目の「事例的に」を「例示的に」と、同七行目の「右事例」を「例示すべき事例」と各改める。)。

二  昭和三八年度検定について

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決三三六頁三行目から三五三頁一行目まで)を引用する。

1  原判決三三七頁五行目の「同渡辺実」の次に「、<証拠略>」を加える。

2  同三四六頁九行目末尾に続けて、「B意見を付された右一七箇所については、翌二一日三省堂から修正した内閲本が提出された。」を、同三四八頁一行目と二行目との間に「(9)同月二一日修正した内閲本提出」の一行を各加え、同二行目冒頭の「(9)」を「(10)」と、三行目冒頭の「(10)」を「(11)」と各改める。

3  同三五〇頁六行目の「し、また、」から七行目の「認められない」までを削除する。

4  同三五〇頁一〇行目の「二〇項目」を「二〇箇所」と、同三五一頁五行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」と、同六行目の「<証拠略>」を「<証拠略>」と各改める。

第四教科書検定制度の違憲違法性

一  教育の自由・自主性違反の主張について

1  右に関する控訴人の主張の要旨は、憲法上、教育の自由、ことに本件と直接関係をもつものとして、国民の学習の自由、教師の教育の自由、国民の教科書その他の教材の作成・発行の自由、なかんずく教科書執筆の自由が国民に保障されている結果、国の公教育への関与は憲法及びその趣旨を具体化する教育の根本法たる教育基本法によつて限界が画されなければならず、国は、教育の外的条件の整備と指導助言に努めるのが本則であつて、教育に対する国家の権力的介入は、その性質上全国的画一化を必須とされる最小限度の範囲にとどめられるべく、具体的には、学校制度的基準として法定されている学校体系、学校種別、修業年限、学年及び学期、教員資格、学校環境基準などの事項や入学・卒業資格、各段階の学校の教育の目的・目標、科目の種類・名称、単位数、教育課程の構成要素、標準時数などの事項に限られると解すべきであつて、大綱的基準を超えて教育の内容・方法に介入することは許されない。これを教科書検定についてみれば、その審査の範囲は、(一)誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤り、(二)造本その他教科書についての技術的な事項及び(三)教科書のごく大まかな構成・全体としての分量等個々の記述内容の当否とは直接かかわらない事項にとどめられるべきであつて、それ以外は指導助言の方法によるべく、右の限度を超えて教科書の記述内容の当否に及ぶ審査は、憲法及び教育基本法第一〇条等によつて保障される教育の自由の侵害となり、許されない。しかるに、学校教育法第二一条には検定の趣旨・目的・限界等についてなんらの規定もなく、その審査の及ぶ範囲が判然とせず、かえつて、戦前における法制、戦後の検定基準の内容、運用の実態からみて同法条に定められた「検定」なる文言は思想内容や学説の当否に深くかかわる教育内容介入を当然に予定しているものと解されるから同条第一項(これを準用する同法第四〇条、第五一条及び第七六条並びに当分の間文部大臣を監督庁と定める第一〇六条)は、教育の自由を侵害するものとして憲法第二六条、第二一条、第二三条に違反するものである。仮に、同条を合憲と解釈することができるとしても、同条を受けて制定された教科用図書検定規則(昭和五二年省令第三二号による改正前)第一条第一項の定めるところは、必然的に教育的な価値判断に深く立入つて審査すべきことを規定していることに帰し、限度を超えた教育内容への介入を予定しているものとして同条項を含む規則全体が違憲と判断されるべきであるとともに教育基本法第一〇条にも違反するものというべきである。更に、教科用図書検定規則第一条第一項を合憲と解釈しうるとしても、その下位に属する教科用図書検定基準(昭和三三年告示第八六号)は、これによる執筆者に対する規制の程度が必要最少限度の枠を超えている点において、また、個々の内容が極めて抽象的で基準が不明確な点において教育の自由を侵害するものであり、また教育に対する不当な支配に当たるものとして教育基本法第一〇条に違反し、かつ、学校教育法第二一条所定の検定審査の範囲を逸脱するものとして違法である。なお、このことは、国の教育行政機関が必要かつ合理的な範囲において教育の内容及び方法に介入することを認める昭和五一年五月二一日大法廷判決の見解を前提とした場合においても異なるものではない。しかして、控訴人は、教科書検定関係法令の違憲が法令全体につき認められない場合には、予備的に可分的な一部の法令の違憲、違法を主張するものである、というのである。

2  子どもの教育の内容を決定する権能がなんびとに帰属するか、したがつて、国は公教育に対しいかなる体様において関与すべきかについて、控訴人と被控訴人との間に顕著な見解の対立があり、この点が教科書検定制度のあり方を考察する上で、決定的な論点の一つとなつているので、まず、国の公教育に対する関与の体様、限界について判断する。

(一) 控訴人の見解は、これを要約すると、子どもの教育は、憲法第二六条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する責務として行われるべきものであるところ、その責務を負担する者は親を中心とする国民の全体であつて、公教育としての子どもの教育は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべき性格をもつものである。教育基本法第一〇条第一項が「教育は、……国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と定めているのは、その趣旨を表わすものであり、したがつて、国が子どもの教育に関与する体様は、教育義務を負担する国民の義務遂行を援助するための諸条件の整備を原則とすべきであつて、子どもの教育の内容及び方法(いわゆる内的事項)については、原則として介入する権能はなく、ただ、全国的画一化を必要とする前記の諸項目に関する事項に限つてこれが許されると解すべきであり、教育は、その実施に当たる教師が教育の専門家として、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形でその内容及び方法を決定し、これを遂行すべきものである。かかる教師の教育の自由は憲法第二六条、第二三条によつて保障されている、というのであり、これに対して、被控訴人の見解は、これを要約すると、民主主義国家においては、その存立と繁栄は国民各自の自覚と努力にまたなければならず、また、福祉国家を理念とするわが国としては、次代を担う子どもに対し適切な教育を施しその健全な発達と能力の向上開発を期することは国の重要な使命であつて、公教育の場において、国がその主宰者として教育内容を国民的合意に基づいて決定し、その適正な実施を監督することが当然に要請される。また、すべての国民が政治に参加し、平和で豊かな社会生活を送ることを可能ならしめるためには国民が一定水準の知識、教養、技能等を有することが不可欠の前提であり、そのためには学校教育に一定の共通性のあることが要求されるが、その要求は国民全体のものであつて、公教育を体現する下級教育機関は国民全体の要求に即応するものとして存在するのであり、子どもとその親、教師のためにのみ存在するものではない。かようにして、憲法第二六条は、国が国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、これをなしうる者として、子ども自身の利益を擁護し、かつ、子どもの成長に寄せられる社会公共の期待と関心にこたえるため必要かつ相当と認められる範囲においては教育内容についてもこれを決定する権能を有することを認めるものと解される。そして、公教育が国政の一部として行われるものである以上、公教育についても議会制民主主義の原理が妥当すべく、法律の定めるところによる限り、国は教育のいわゆる内的・外的事項の両面にわたつて関与することが認められるべきである、というのである。

(二) 思うに、教育は各自の人格の発達、形成に必要不可欠なものであり、また、人は教育を受け一定の知識・教養を身につけることによつて共同社会の成員としてその能力を発揮し、責務を遂行し、更に文化、経済等多方面にわたる各種の利益を享受することができるのであるが、それにとどまらず、憲法上わが国の国是である民主主義国家の維持発展は、国民のひとりひとりが国政に参加することによつてもたらされるものであり、そのためにも教育による国民の資質の向上が強く要請されるのであつて、これらのことから、とりわけ子どもの教育は緊要欠くべからざるものとして、教育の根幹に位するものといえるのである。

ところで、子どもの教育が根源的には、親の子に対する自然発生的な養育監護の作用として現われるものであることはいうまでもなく、このような親の子に対する教育権は憲法による保障をまつまでもなく存在するものであるが、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴つて生ずる教育に対する要求の質的拡大と量的な増大に対して、旧時における親の子に対する教育ないしその延長ともいうべき私的な施設による教育をもつてしてはこれらに対応することが不可能となり、次第に子どもの教育が社会共通の関心事となり、公共の施設において組織的、計画的に教育を行ういわゆる公教育制度の成立、発展をみるに至つたのである。右の公教育制度の形成過程については、原判決の理由説示(同二三二頁二行目から二三五頁三行目まで)のとおりであるから、これを引用する(但し、同二三二頁二行目から三行目にかけての「<証拠略>」から七行目の「<証拠略>」までを「<証拠略>」と、同二三四頁四行目の「公共団体の営む」を「公共団体が設置・管理する」とそれぞれ改める。)。

(三) 憲法第二六条第一項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、第二項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。

右の規定は、第一項において、さきに述べたような教育のもつ意義を背景として国民の国家に対する教育請求権、これを子どもの教育についていうならば、子どもの学習権の存在を明らかにし、その反面として、国が積極的に教育に関する諸施設を整備することにより国民の右教育請求権を全うさせる責務を負うことを宣明するとともに、第二項において、子どもに対する普通教育を義務教育として、保護者である親に対し就学させる義務を課し、併せて義務教育の無償性を宣言したものであるが、右の憲法の規定からは一義的に、教育の内容及びその方法をなんびとがどのように決定すべきかについての当面の問題点を直接解決しうるような結論は直ちに導き出しえないものというほかない。

この点につき、控訴人は、子どもに対する教育を直接に担当する教師は、憲法第二六条、第二三条により教育の自由(教授の自由)を保障されており、教師こそが教育内容を決定し教育を遂行すべきものと主張する。しかしながら、右にいう教育の自由が憲法第二六条から当然に導き出されうるものでないことは、同条の文言と前述したところから明らかである。次に、憲法第二三条によつて保障される学問の自由のなかには大学の教員が公権力や外部の勢力に制限を受けることなく、教授内容及びその方法を自由に決定しうることも含まれるが、かかる自由が、普通教育を担当する教育機関の教師に対してまで認められるか否かについては、普通教育機関においても教師の専門的知識、経験が重要な役割を果たし、したがつて、その職務の遂行に当たつて教師の専門的判断が尊重されなければならないことは当然の事理であり、また教育は教育する者と教育される者との直接の人格的接触によつて行われるべきものであるとの教育上の理想からしても、具体的な教授内容とその方法についてはある程度の裁量が認められることが必要であり、また、教育の場において教師が公権力により特定の見解を教授することを強制されてはならないとの意味合いにおいて一定範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯認しえないものではない。しかしながら、学問の自由が全面的に認められる大学教育においては、受け手である学生が教授内容を批判する能力を一応備えていることを前提とすることが可能であるのに対し、高等学校以下の普通教育においては、児童、生徒に右のような批判能力がないか、不十分であるため、教師が児童、生徒に対して強い影響力と支配力を有すること、児童、生徒の側で学校や教師を選択する余地が乏しいこと、教育の機会均等をはかる上で全国的に一定の水準を確保する必要があり、そのために教育内容について一定の共通性が要請されること等の事情にかんがみるときは、普通教育においては、教師に完全な教授の自由があるとは解しえないものというべきであり、したがつて、憲法第二三条もまた、普通教育における教師に対し完全な教授の自由を認めているとは解しがたいのである。してみれば、右の教師の教育の自由(教授の自由)を根拠として、教育内容及び方法についての決定権が教師にあるとする控訴人の主張は採用することができない。

しかるところ、福祉国家の理念の下に、民主主義をもつてその政治形態とするわが国のような国家が、国民に対する公教育につき前記のような責務を負担するのは、国会を通じて表明された国民の意思に基づくものであり、その信託を受けた結果にほかならないというべきであるが、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定し、実現すべき立場にある国は、信託された国政の一部として、広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、これをなしうる者として、憲法上、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の期待と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解するのが相当であり、これを否定するに足りる根拠はない。

(四) 次に、この点を教育基本法第一〇条との関係について検討する。

(1) 同条第一項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と定め、第二項は、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と定めている。しかるところ、控訴人は、これらの規定、なかんずく第二項の規定を根拠として、国の教育行政による権力的介入は、全国的画一化を必要とする最小限度、すなわち教育の外的条件の整備と指導、助言の範囲にとどめられるべく、これを超えて教育の内容、方法に介入することは許されないのであり、学校教育法第二一条その他教科書検定関係の法令は、同条項に違反する、と主張する。

もともと教育基本法は、憲法に直接教育のあり方の基本を定めることに代え、わが国の教育及び教育制度全体を通ずる基本理念と基本原理とを宣明することを目的として制定されたものであつて、戦後における教育の根本的改革を目的として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律であり、同法の定めは形式的には通常の法律規定と異ならず、これと矛盾する他の法規を無効とする効力を有するものではないが、教育関係法令の解釈、運用は、当該法律自体に別段の定めのない限り、教育基本法の規定及び同法の趣旨、目的にそつてなされるような考慮が払われなければならないのであって、この点は控訴人の指摘するとおりである。また、同法第一〇条第一項との関係についていえば、同条項が法令に基づいてされる教育行政機関の行為についてもその適用を免れるものではないと解すべきことは、同条の立法の趣旨、沿革に照らしても窺うに足り、異論のないところである。

しかしながら、教育行政機関の教育に対する関与、なかんずく教育の内容に関する関与が常に教育に対する不当な支配に当たるとする見解に対しては到底これに左袒することができないのであり、控訴人の主張の趣旨もまたこのような極端なものではなく、いわゆる大綱的な枠の中にとどまるべきものとするにあることは、その主張自体に照らし、明らかである。

(2) ところで、前記教育基本法第一〇条第二項にいう諸条件の整備確立の意義については、従来次の二つの見解が存在する。

(イ) 右の「諸条件」には、いわゆる教育の外的事項及び内的事項の双方が含まれるとする見解

教育の目的を遂行するためには、教育全般の制度・機構を整備し、その運営方法を整える必要がある。したがつて、右条件の整備には、教育行政機関の固有の権限である学校施設、教育財政等の物的管理や教職員の人事、就業業務の監督等の人的管理のほか、教育課程の基準の設定、教育課程の管理及び教科書その他の教材の取扱い等教育内容についての管理・運営が当然に含まれるのであり、したがつて、「諸条件」には教育の目的を遂行するに必要な条件である限り、教育内容と直接関係のないいわゆる外的事項に関するものたるとこれに関係のある内的事項に関するものたるとを問わず、そのすべてが含まれるのである。かような解釈は、現行の教育法制にも合致するものであり、同法条の文理解釈上も、これを外的事項に限ると解すべき理由は見当たらない、しかも、現代の公教育において、教育に関する諸条件を内的事項と外的事項とに厳密に区分することは、極めて困難であるというものである。

(ロ) 右の「諸条件」は、教育の外的事項に関する条件のみを意味するとの見解

憲法第二六条は、国に対し、子どもの教育を受ける権利、ひいては国民の子どもに対する教育の義務を実質的に保障すべき責務を課したものであるが、教育基本法第一〇条第二項は、このことを前提として、国が教育の目的達成のための諸条件を整備・確立するという任務を果たすべきことを明らかにしたものである。同項の「この自覚のもとに」とは、第一項の規定を受け、そこで定められた原理を自覚して、との趣旨に解すべく、また、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備」とは、憲法第二六条の前記の趣旨及び教育基本法の他の諸規定に示されたところに従つて、これを具体的に達成するために、諸制度、諸条件を整備することを意味する。そして、教育基本法第一〇条第一項では教育の自主性、自律性が宣言され、教育行政は「この自覚のもとに」行われなければならない、とされているのであるから、同条第二項にいう「条件整備」は、教育の内容面に権力的な介入をするものであつてはならず、教育が自主的、創造的に行われるようこれを育成助長するための諸条件を整えることを意味するものにほかならない。したがつて、教育施設の設置・管理等のいわゆる教育の外的事項が教育行政の本来の任務たるべき事項であり、教育課程、教育方法等のいわゆる内的事項については、教育行政権は、公教育制度の本質にかんがみ、不当な法的支配にわたらない大綱的基準立法ないし指導・助言行政の限度でその権限を有し、責務を負うものであり、これを超えて、教育内容及び方法に立入ることは許されないというものである。

(3) そこで考えるに、さきにも述べたように、憲法上、国は、国民の信託を受けて、広く適切な教育政策を樹立、実施する権能を有し、また、国会は国権の最高機関たる唯一の立法機関として、教育の内容及び方法についても、法律により、直接に又は行政機関に授権して必要かつ合理的な規制を施すことを要請される場合もありうるのであつて、国会が教育基本法においてこのような権限の行使を自己限定したものとは解しがたいから、必要かつ相当と認められる範囲においては教育内容についてもこれを決定する権能を有するとすることは、憲法の許容するところと考えられ、教育基本法第一〇条は、右のような国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるに当たつては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意義があり、したがつて、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとい教育の内容及び方法、すなわちいわゆる内的事項に関するものであつても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが相当である。しかして、当面の問題である高等学校教育は、小・中学校がそれぞれ「初等普通教育」・「中等普通教育」を施すことを目的とする(学校教育法第一七条、第三五条)のに対して、その目的を「中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すこと」(同法第四一条)に置いており、高等学校教育もまた普通教育の一環として、高等普通教育の分野を担当して小・中学校教育と共通の基盤に立ち、その延長線上にあるものであるから、義務教育に属するものではないとはいえ、これまた、教育の機会均等を確保する上からも、地域・学校別等のいかんにかかわらず、全国的に一定の水準を維持すべきことが強く要請されることはいうまでもないのである。してみれば、高等学校教育においても、公権力の不当、不要な介入が排除されるべきことは当然であるが、国が、その特質等を配慮しつつ、許容される目的のため必要かつ合理的と認められる関与ないし介入をすることは、それがたとい教育の内容及び方法に関するものであつても是認されるものと解すべきである(最高裁判所昭和五一年五月二一日同四三年(あ)第一六一四号大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁、同昭和五四年一〇月九日同五一年(あ)第一一四〇号第三小法廷判決・刑集三三巻六号五〇三頁各参照)。

控訴人の見解は、さきに挙げた(ロ)の見解に属するものであつて、右に判示するところから自ずから明らかなように当裁判所はこれにくみしない。

(五) これを要するに、国は公教育において、許容される目的のため必要かつ合理的と認められる範囲内で、教育の内容及び方法に関与ないし介入することも許されるのであつて、このことは高等学校教育についても変るところはないと解するのが相当であるといわざるをえない。

3  そこで、右の見地に立つて、控訴人の主張の当否につき検討するに、控訴人は、順次、学校教育法第二一条、教科用図書検定規則、教科用図書検定基準の全部又は一部の違憲ないし違法(但し、憲法第二一条、第二三条違反をいう点は、それぞれ別に判示するところに譲る。)をいうところ、のちに、第四の二において判示するとおり、教科書検定は、文部大臣が、新規に著作された図書又はすでに発行ずみの特定の図書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において、教科書として使用しうる法律上の資格を付与、設定するか否かを審査決定する行政処分であつて、さきに第二の四及び五で訂正引用した原判決理由中に認定した検定基準及び検定手続によつて行われるものである以上、その目的が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合致するか否かを審査することにあるとはいえ、審査の内容が、誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤りその他控訴人指摘のような個々の記述内容の当否と直接かかわらない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容に及ぶことのありうることは自ずから避けがたいところであつて、検定基準自体もこのことを前提としていることは明らかである。もつとも、学校教育法第二一条の規定上はもとより、他にも同法中に右の趣旨を明らかにした規定はないけれども、検定の語義自体からしてこのことは明らかであるということができる。

しかしながら、そうであるからといつて学校教育法第二一条の規定自体が憲法第二六条ないし所論の教育の自由を侵害することはありえないというべきである。けだし、国は、憲法上、適切な教育政策を樹立、実施する権能を有しており、許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲においては教育内容についても決定権限を有しているものと解すべきことは前述のとおりであり、しかも、教科書検定は公教育における教育の中立・公正及び機会均等の確保の要請に即し、かつ、教育水準の維持向上をはかるという正に許容される目的をもつてなされるものであることは、第二の一で引用した原判決の理由説示に照らし明らかであるからである。そしてこのことは、教科用図書検定規則についても同断であり、また、前項(四)の(3)に述べたところにかんがみ、同規則の定めるところは教育基本法第一〇条第一項にいう不当な支配に当たるとは解しがたいから、同規則が同法条に違反するともいえないのである。次いで控訴人が教科用図書検定基準も同法条ないし学校教育法第二一条に違反するとする点についても、右検定基準の内容は、絶対条件及び必要条件の双方についてこれをみるとき、誤植等の防止等技術的観点のものを除く部分についても、教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持及び教育の中立・公正に対する要請の面からしていまだ必要かつ合理的な規制の範囲を超えるものではないと解されるから、教育基本法第一〇条第一項及び学校教育法第二一条の趣旨を逸脱するものではない、というべきである。なお、控訴人の主張中の個々の内容が抽象的で基準が不明確であるとする点については、直接教育の自由ないし憲法第二六条が国民に保障する権利とは関係がなく、むしろ法文の明確性の原則に違反するとの主張として取り上げるべきものと解されるところ、この点に関する判断は、のちに、第四の二の4に判示するとおりである。

更に、教科用図書検定基準が、その絶対条件の2において、「(教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。」と規定していることは、さきに認定したところであり、かくして学習指導要領の定めは検定基準の内容ともなつているのであるが(この意味において学習指導要領に法的拘束力が付与される結果となつていることは、のちに第四の四の3の(六)で判示するとおりである。)、右要領の記述の内容、程度は、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が残されていて、全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められることは、第四の四の3の(六)に判示するとおりであり、したがつて、右学習指導要領の内容もまた控訴人主張の趣旨において教育基本法第一〇条又は学校教育法第二一条の規定に違反することとなるものではないと解すべきである。

なお、控訴人は、予備的に、教科書検定関係法令の一部の違憲違法を主張するところ、当裁判所が判断の対象としているのは、いうまでもなく、高等学校社会科の教科書についての検定に関する限度においてであるが、この点に関して関係法令の一部についても違憲違法の法令が存在するとは認められず、その他、控訴人の主張する諸点を考慮してみても、教科書検定関係法令ないしこれに基づく検定制度に所論の違憲違法の事由が存在するとは認めがたい。

以上の次第で、本件教科書検定制度が教育の自由・自主性を侵害するとの控訴人の主張は採用のかぎりでない。

二  憲法第二一条違反の主張について

1  右に関する控訴人の主張の要旨は、(一) 現行教科書検定制度(但し、本件各検定処分当時のもの)は、教科用図書検定規則(昭和二三年文部省令第四号)第一条の規定により明らかなように、目的それ自体のうちに、図書の記述内容に対する学問的真否の判断及び教育的価値判断並びに憲法・教育基本法の趣旨について文部大臣が有権的解釈を施すことを含むものであることが明らかであるところ、これらの判断に当たり、特定の見解に立脚して他の見解の当否を論ずること自体が内容審査に他ならず、かかる内容審査は、判断対象たる事項の性格自体からして容易に狭義の思想審査に及びうるものである。そして、更に、検定の直接の基準となる教科用図書検定基準(昭和二三年文部省告示第八六号)の規定内容は、絶対条件、必要条件の各項目や右各条件に取り入れられている学習指導要領の各項目のいずれをとつても、それらによる教科書原稿の審査が単なる形式検査でなく、学問的真否ないし教育的配慮の当否にかかわる内容審査であり、しかも、容易に狭義の思想審査となりうる性格のものであることは一見明白である。したがつて、本件検定制度は憲法第二一条第二項所定の検閲に該当するものであつて違憲である。(二) 仮に本件検定制度が同条項所定の検閲に該当しないとしても、右制度は、憲法第二一条第一項が原則的に禁止する表現行為に対する事前抑制に該当するものであり、しかも、例外的に許容される場合に当たらないから、同条項に違反するものであつて違憲である。(三) 更に本件検定制度につき事前抑制禁止の原則の適用がないとしても、右制度を構成する諸法令は、その内容が全体として極めて漠然としており、かつ、多義的、包括的であつて、検定権限の行使に関して、検定権者の恣意を排し、また、執筆者・出版者の過度の自己抑制を避けるに足りる程度に客観的に明確な基準を予め提示しているとはいえず、法文の明確性の原則に違反しているから、本件検定制度は憲法第二一条に違反する、というのである。

2(一)  言論、出版の自由を含む表現の自由は、憲法の保障する基本的人権の中でも、他の自由や権利に比べて、最も重要な基本権として優越的地位を与えられ、これに対する制限は必要最小限のものでなければならないのであり、憲法第二一条第一項の規定はそのような見地に立つて解釈されるべきものである。ところで、憲法第二一条第二項前段は、更に「検閲はこれをしてはならない。」と規定する。憲法が、表現の自由につき、広くこれを保障する旨の一般的規定を同条第一項に置きながら、別に検閲の禁止について特別の規定を設けたのは、検閲がその性質上表現の自由に対する最も厳しい制約となるものであることにかんがみ、公共の福祉を理由とする例外の許容をも認めない趣旨を明らかにしたものであつて、ここにいう「検閲」とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することをその特質として備えるものを指すと解される(最高裁判所昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決民集三八巻一二号一三〇八頁参照)。

(二)  ここで、本件各検定処分当時の教科書検定制度が右にいう検閲に該当するか否かについての検討に先立ち、当裁判所は、教科書検定の法的性格は、被控訴人主張のとおり、検定申請者に対し教科書出版の資格を付与する設権処分であつて、請学上にいわゆる特許行為であると解するものであることを明らかにしておく。その理由は以下に述べるとおりである。すなわち、教科書検定の法的な性格については、大別して確認行為説、特許行為説、許可行為説の三説があるとされており、その内容として次のように主張されている。

(1) 確認行為説 教科書の検定とは、申請された図書につき、検定基準に照らして審査し、それが右基準に合致していると認められる場合に、公の権威をもつてこれを認定する行為であり準行政行為に属する(<証拠略>参照)。

(2) 特許行為説 教科書検定の目的は、書籍一般の中から教科書としての適格性のあるものを認定して、これに対し書籍一般に当然には備わつていない特別の地位を付与するものである(<証拠略>参照)。

(3) 許可行為説 教科書の発行は、国民個人の出版の自由に含まれる自由であり、検定は、法令によるこの自由の一般的禁止を特定の場合に解除する許可行為である(<証拠略>参照)。

ところで、(3)の許可行為説によれば、検定の結果不合格処分となつたものは、教科書としてはもとより教材その他としての発行をも禁止される結果となるから、教科書の出版が国民個人の出版の自由に含まれるとの見解を是認することができれば、教科書検定は検閲に当たるとの帰結に達することは見易いところである。しかしながら、教科書は、すでにみたように、学校教育に用いられる特殊な図書であつて心身ともに未発達の児童ないし生徒が使用するもので、その使用が強制されていること、それゆえに児童、生徒の心身の発達段階に相応した理解能力に合わせて、教科の系統的、組織的な学習に適するように各教科課程の構成に応じた組織配列が求められるものであること、その内容において一定の水準が保たれる必要があることなど、一般の図書とは性質を異にするのであつて、国民が憲法上出版の自由を有することから直ちにその著作にかかる図書をもつて教科書として出版することを文部大臣に要求する権利までが与えられているということはできず、この意味において、国民は本来教科書を出版する権利を当然に有しているとはいいえないのである。したがつて、検定の申請をもつて、右出版権の禁止の解除を求めることであるとする許可行為説にはにわかに賛同することはできない。次に、さきに認定の教科書検定の手続的側面に徴すれば、確認行為的な面がみられないではない。しかしながら、検定は、その事柄の性質上、また本件当時の検定基準の内容からみても、行政機関が客観的基準に照らして一義的に判断し、裁量の余地がないという確認行為の本来的性質とは相容れないのであつて、これまた採りがたいものといわなければならない。結局、さきに認定したような検定の手続、その運営の実態からみるときは、教科書検定は、文部大臣が新規に著作された図書又はすでに発行ずみの特定の図書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において、教科書として使用しうる法律上の資格を付与、設定するか否かを審査決定する行政処分であり、検定合格処分により、当該図書の著作者又は発行者に対し、右の法律上の資格が付与、設定されるものであつて、その法的性格は特許行為に属すると解するのを相当とすべきである。

(三)  教科書検定の法的性格につき、右の見解を前提にした上で、当面の問題である検閲該当性について判断するに、前述したとおり、検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、対象となる表現物につき網羅的一般的にその内容を審査することをいうのであるが、教科書の検定もまた、さきに述べたところから明らかなように思想内容等の表現物でありうる申請にかかる教科用図書の原稿の内容を網羅的一般的に審査することとなる点において右の限度ではその要件を充足するものといわなければならない。しかしながら、弁論の全趣旨及び検定関係法令の趣旨に徴すれば、教科書検定に際し思想内容等に立入ることがあるとしても、教科用図書としての特性上、中立・公正の保持の観点からその限度で審査の対象とされるにとどまるものであるのみならず、検定申請の対象となる教科用図書の原稿は必ずしも出版前のものである必要はなく、すでに出版されて市場にある図書であつても差支えないとする取扱いであることが窺われ、したがつて、教科書検定は、思想内容等の発表に対する事前審査を必須の要素とするものではないといわなければならない。更に、教科用図書の検定に不合格となつた原稿であつても、これを一般の図書として出版することは自由であつて禁止されないこともまた同上の証拠関係等に照らし肯認できるところであり、かつ、<証拠略>によれば、控訴人自身も、昭和三二年四月に不合格処分を受けた本件新日本史の三訂版原稿のほとんどそのままのものを、昭和三四年三月に文一出版株式会社から「国民の日本史」の名で公刊したことが認められるのであり、これらからしても教科書検定は不適当と認める図書の発表を禁止することを目的とするものではないといわなければならない。してみると、教科書検定は、発表前の表現物の内容の審査あるいはその発表の禁止という検閲の備えるべき特質を欠くものというべきであるから、その余の点を判断するまでもなく、憲法第二一条第二項前段にいう検閲には当たらないものというべきである。この点について、控訴人は、教科書執筆の自由及び教科書出版の自由なるものが憲法上なんびとにも保障されていることを前提にして、検定不合格処分となつた場合に、当該図書を一般図書として出版することが制約されないか否かにかかわらず、教科書執筆及び出版の自由を制限される点において憲法第二一条に違反するとも主張する。しかしながら、教科書は前記のような特殊な性質を有する図書であるから、憲法上、国民に対して書籍一般を執筆し、出版する自由が認められているとはいえ、これと同じ意味合いにおいて自己の執筆した図書を教科書として出版する自由までが認められるか否かについては、前述した教科書の特殊性にかんがみこれを否定的に解さざるをえないのであり、したがつて、控訴人の右の主張もまた採用のかぎりでない。

3  控訴人は、教科書検定が制度的に検閲に当たらないとしても事前抑制の禁止の原則に違反して違憲である、と主張する。

さきに判示したとおり、教科書検定はすでに出版された図書をも申請の対象としうるのであるから必ずしも常に事前抑制に当たるとはいえないが、教科書として出版されるについては常に検定を経なければならず、行政権が図書の一種である教科書たる表現物について事前の審査を加えるのであるから、事前の抑制をする場合に当たることのあることは否みえないところである。しかしながら、事前抑制の禁止も絶対的なものではなく、特段の合理的理由があるときは例外的にも抑制的措置をとることが許されるものと解すべきところ、さきに判示したように教科書は心身ともに未発達の児童ないし生徒がその使用を強制されるものであつて、児童、生徒の心身の発達段階に相応した理解能力に合わせて、教科の系統的、組織的な学習に適するように各教科課程の構成に応じて組織、配列されたものであることを必要とし、また、その内容も一定の水準が保たれていることを必要とするなど、教育上の観点からの一定の規制が必要であることは否定できないところであるから、このような事情に照らすときは、教科書検定が時に教科書執筆者の表現行為に対する事前の抑制になるとしても、検定を受けるべき執筆者の側においてこれを受忍するのを相当とする特段の合理的理由があるものというべきであり、検定制度自身が憲法第二一条に違反すると解すべきものではない。

4  次に、控訴人は、教科書検定制度を構成する関係法令は、法文の明確性の原則に違反しており、憲法第二一条に違反すると主張する。

人の表現行為を規制する法令が不明確な法文により構成されているときは、その運用の過程において法令の本来の趣旨・目的を逸脱して適用されることがありうるし、他方、執筆者等表現行為をする側においてもともすれば自由な表現を自己抑制することとなり易いところから、明確な法文構成をとることが要求されるのであり、このことは、刑罰法令については特に厳格に要求されるものというべきである。しかしながら、刑罰法令以外の法令についてもその趣旨を尊重すべきことは表現の自由の優越的な地位にかんがみ、当然としなければならない。

そこで、検定関係法令について控訴人の主張に従いこの点の検討をする。

教科書検定制度を構成する関係法令は、すでに引用にかかる原判決の理由第二の二ないし四の項で判示したとおり、学校教育法第二一条(これを準用する第四〇条、第五一条、第七八条)、文部省設置法第五条第一項第一二号の二、教科書の発行に関する臨時措置法第二条、教科用図書検定規則、教科用図書検定基準であるが、検定に関する実体法規ともいうべき検定基準を定めるものは、右のうち教科用図書検定基準である。しかるところ、右検定基準の内容について、控訴人は、例えば絶対条件三項(立場の公正)の、「特定の政党や特定の宗派にかたよつた」とか、「その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難したり」との文言は極めて多義的であり、必要条件二項(正確性)にいう「誤り」、「不正確」、「一面的」などの文言とともに検定権者の主観に基づく恣意を許しかねないと主張する。

民主主義社会を維持、存続させ、発展させる義務を負い、社会の次代の担い手である子どもの健全な育成の基幹となる公教育についてその運営の責務と権能を有する国としては、主たる教材である教科書の内容をいかにするかについて多大の関心を抱かざるをえないのであり、検定制度のもとでは、その内容は執筆者、発行者の創意工夫に期待するところ大であるが、他面、さきに述べたような教科書の図書としての特殊性に加えて検定の公正と適正とを保持するため検定基準を設けてこれを予め公示しているのである。ところが、教科書の検定は思想を含む表現物の審査であるという特質と検定それ自体の本来的性格のため、これらに由来する相応の裁量権を認めるべき必要が存するのであつて、すべての場合を想定してこれに妥当する画一的一義的な基準を設けることは著しく困難であると同時に、そのような基準を設けるときは国が国定の教科書を著作するのと選ぶところのない結果となり、現行検定制度の趣旨を没却することになりかねないのである。このような観点からみれば、むしろ画一的、一義的な基準を設けないことによつて執筆者、発行者に自由な発想の余地を広く残しているともいえるのであり、教科書検定の特質からして検定基準はある程度包括的な表現によつて定めざるをえないものというべきである。そして、控訴人が例として右に指摘する諸用語とてもいずれも一定の価値判断を伴う言葉である意味において審査に際し主観的な要素が加わる余地を容れるものであることは否みえないものの、執筆者、発行者の側で良識をもつて時代の常識に即して考究すれば、自ずから当該事項についての標準的解釈判断を引き出しうる程度のものといつて妨げなく、結局右検定基準はさきに挙げた検定の特質にかんがみるならば、いまだこれを規定上不明確として違憲無効としなければならないものではないというのが相当である。

三  憲法第二三条違反の主張について

1  右に関する控訴人の主張の要旨は、(一) 被控訴人は、原審以来、学校教育法第二一条第一項にいう「検定」とは、教科書としての適否を審査してこれを決定することを意味するものとして、文言上、沿革上確定していると主張するところ、そうであるとするならば、教科書検定は教科書原稿の記述の誤記・誤植、色刷りの不鮮明等の明白な欠陥の是正にとどまらず、学問的判断事項を含む教科書原稿の記述内容の審査に及び、またそれを通じて執筆者の学問的見解に対する審査、その当否の判断を不可避なものとすることとなるから、同条項及びその準用規定である同法第四〇条、第五一条、第七六条並びにこれを受ける教科用図書検定規則以下の行政立法のすべてが憲法第二三条に違反するものとして無効というべきである。(二) また、学校教育法第二一条第一項にいう「検定」の意義が被控訴人主張のように確定しているとはいえないとするならば、(1)教科書の執筆が執筆者の学問的成果の取捨選択とその体系的叙述を本質的な内容とするものである以上、教科書検定の目的を定める教科用図書検定規則第一条第一項の規定は、検定が教科書原稿の記述の誤記・誤植等明白な欠陥の是正にとどまらず、記述内容の審査に及び、またそれを通じて執筆者の学問的見解に対する審査、その当否の判断を不可避なものとする制度であることを闡明するものとして憲法第二三条に違反し、右目的規定と不可分の関係にある同規則全体もまた同条に違反することが明らかであり、(2)更に、実質的な検定基準を構成する「教科用図書検定基準」、「高等学校学習指導要領」、「中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(教科用図書検定調査審議会決定)は、前記検定規則の定める検定目的を受けて、その内容は、およそ教科書の内容、外観の両面に関し、いかなる細目についてもまたいかなる限度にわたつても検定当局が介入できる程度に包括的・抽象的・多義的であり、検定当局が教科書の記述内容に介入し、個々の記述の学問的当否を判断し、執筆者の専門的・学問的観点からする記述の内容・程度に対する配慮を否定する根拠となつているものであつて、憲法第二三条に違反することは明らかであり、したがつて、これらの諸法令から成る教科書検定制度が教科書執筆者の学問的見解の発表、伝達の自由を侵害することはあきらかである、というのである。

2  控訴人の右主張は、畢竟するに、学校教育法第二一条以下の法令によつて構成される教科書検定制度は、学問的判断事項を含む教科書の記述内容を審査することによつて執筆者の学問的見解の当否の判断に及ぶものであるから、憲法第二三条の保障する学問上の研究成果の発表の自由を侵害するものであつて、前記関係法令は、憲法の右条項に違反して無効であるとするものと解されるところ、学校教育法第二一条にいう「検定」の語義が教科書の誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りその他控訴人指摘のような個々の記述内容の当否と直接かかわりのない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容に及びうるものであること、そのことが憲法第二六条ないし教育の自由を侵害するものでないことは、すでに第四の一の3に判示したところである。

控訴人が論拠とする憲法第二三条の学問の自由が広くなんびとにも保障されるものであり、また、右学問の自由には控訴人主張の研究者による研究の成果を発表する自由をも含むものであることは、異論のないところといえるが、しかしながら、本件における当面の問題である教科書が使用されるのは普通教育に属する高等学校においてであり、さきに、第四の一の2において判示したとおり、大学等の高等教育の場とは異なり、普通教育では教師による教授内容を批判する能力がいまだ十分に備わらない児童、生徒が対象となるため、教師は強い影響力と支配力を有する反面、児童、生徒の側で学校や教師を選択する余地が乏しいこと、教育の機会均等をはかる上で全国的に一定の水準を確保する必要があり、そのためには合理的範囲内での教材、教科内容、教授方法等についての画一化が要請されること等このような普通教育の本質とその特殊性に照らせば、憲法第二三条は、普通教育における教師に対し完全な教授の自由までを認めるものではないと解するのが相当というべきである。しかして、教科書は、普通教育における主たる教材であつて、授業において中心的役割を果たすものであることは、さきに第二の一で引用した原判決理由中に判示したとおりであるから、右と同様のことが教科書の執筆者に対して要請されるのであり、その意味において、すなわち、普通教育の本質とその特殊性に照らして、教科書の執筆者には、前述の趣旨の合理的範囲における制約があり、その執筆に関し完全な研究成果の発表の自由は認められないと解さざるをえないのである。所論の教科用図書検定規則、教科用図書検定基準、高等学校学習指導要領(本件の関係では社会科日本史部分)、中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規のいずれをみても、いまだ右の合理的範囲の限度を超えて執筆の自由を制限しているものとは認めがたいから、控訴人主張の教科書検定関係法令は憲法第二三条に違反するものではない、というべきである。

以上により、控訴人の憲法第二三条違反の主張も採用することができない。

四  法治主義・憲法第三一条違反の主張について

1  右に関する控訴人の主張の要旨は、(一) まず、検定制度の法治主義違反の点については、現行法上教科書検定の趣旨、目的、手続、限界、検定基準を定めている法律はなく、文部省令にすぎない教科用図書検定規則(昭和二三年文部省令第四号)にこれが定められていたにすぎないところ、右規則制定の根拠とされる学校教育法第八八条の規定は、文部大臣のいわゆる執行命令制定権を定めたものであつて特別の委任規定ではないからこれを根拠に右規則を制定することは、憲法第四一条、第七三条第六号に違反するものであり、また、文部大臣が定めた教科用図書検定基準(昭和三三年文部省告示第八六号)も、その内容は学校教育法第八八条の委任の範囲を超えるものであつて、右同様憲法第四一条、第七三条第六号に反するものというべく、更に、検定手続を法的規制の面からみても、教科書検定は「人民の権利又は利益の侵害にわたるような行政行為」であることが明らかであるにもかかわらず、公開の聴聞、弁明の機会の供与等の手続をもたず、また、国民に全く公示されない「審議会内規」、「教科書調査官申し合わせ」という単なる内部手続規程にとどまらない重大な定めがあり、検定による合否に大きな影響を与えているのであり、これらからしても、現行の教科書検定は行政の公正を確保する意味の法治主義に違反することは明らかである。(二) 次に、検定制度の憲法第三一条違反の点については、同条の規定は憲法における手続的保障規定の中核をなすものであつて、その規定の趣旨、沿革及び文理解釈からして行政手続にも適用をみるもので、検定手続についても、適正手続が憲法上要請されているものと解すべきところ、これを教科書検定関係法令についてみると、検定の目的、具体的手続を定める前記教科書検定規則は、同規則所定の原稿審査、校正刷審査及び見本本審査がそれぞれどのような目的でどのようになされるのかを規定するところがなく、各段階における検定申請者に対する告知・聴聞、理由の告知、手続公開についての保障規定を全く欠いており、他にもこれに関する法令は存しない。また判定機関の公正の面については、教科用図書検定調査審議会令(昭和二五年政令第一四〇号)は、審議会委員、調査員の任命を文部大臣に委ねている点で、教科書調査官が文部省職員であることと並んでこれらの者の選任手続の公正を担保する手続上の法障を欠くものであり、更に、学校教育法第二一条第一項、教科書検定規則第一条、教科用図書検定基準、合否判定内規はいずれも審査基準として曖昧、不明確で、検定機関の恣意が入り込みやすく、現実の運用においてもそれが入り込んでいることからして審査基準の明確性の保障に反しており、憲法第三一条に違反する。(三) しかして、本件検定手続の手続的違憲性について述べれば、昭和三七年度検定においては、被控訴人は、控訴人に対し不合格処分をするに当たり、事前にその理由を告知することがなく、控訴人は検定意見に対する反駁証拠を提出する機会を全く与えられなかつたのであり、更に、事後においてされた不合格理由の告知もその一部が口頭でされたにとどまるのであつて、明らかに適正手続の要請に反しているというべく、また、昭和三八年度のそれにおいては、被控訴人から僅か一か月の期限を一方的に指定して約三〇〇箇所の条件指示がなされ、その後においても別箇所を含めた追加修正指示がなされるなど控訴人に対し、その内容について調査、検討の機会を実際上与えないような告知方法がとられたのであり、手続的正義に著しく反するといわねばならず、加えて、右修正指示の内容に関しても、本来参考意見にすぎないB意見の箇所について事実上修正を強要するような運用がなされたため、控訴人側では時間的制約と相まつてB意見の指摘箇所についても修正に応ぜざるをえなかつたのであり、かかる恣意的運用は手続的正義に反することが明らかである、というのである。

2  控訴人の主張のうち、現行教科書検定制度は憲法第三一条の規定に違反するとの主張につきまず判断するに、これについては、次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決三〇五頁一行目から三〇六頁九行目まで)を引用する。

(一) 原判決三〇五頁五行目の「生命自由及び財産」と同八行目の「自由、生命、財産」とをそれぞれ「生命、自由又は財産」と、同末行の「刑罰を科せられない」を「又はその他の刑罰を科せられない。」と、同三〇六頁七行目の「大法廷判決」を「大法廷決定」と、同行から八行目にかけての「二三七九頁」を「二二七九頁参照」と、三〇六頁八行目から九行目にかけての「みないのであるから、原告の前記主張は理由がない。」を「みないものというべきである。」と各改める。

(二) 原判決三〇六頁九行目(右訂正後のもの)の次に行を変えて、次のとおり加える。

「控訴人の主張のうち、審査基準の明確性に反するとの主張についての判断は、かかる主張の根拠を憲法第三一条に求めるのが正当であるか、憲法第二一条に求めるのが正当であるかはひとまず措き(結論的にいえば、当裁判所は憲法第二一条に求めるべきものと考える。)、仮にこれを憲法第三一条に求めうるものとしても、すでに、憲法第二一条違反の主張に対する判断として示したところと同一の理由により憲法第三一条にも違反しないと解するのが相当である。

したがつて、控訴人の前記違憲の主張は採用することができない。」

3  次に控訴人の法治主義違反の主張につき判断するに、この点についての当裁判所の判断は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決の理由説示(原判決三〇六頁末行から三二三頁七行目まで)を引用する。

(一) 原判決三〇八頁五行目の「原告の指摘するとおりである。そして、」を「控訴人の指摘するとおりであつて、」と改める。

(二) 同三一二頁五行目の「第一〇六条」の次に、「(但し、(3)学習指導要領の定められた経緯は、2(次項)記載のとおりである。)」を加える。

(三) 同三一五頁三行目から四行目にかけての「相当であるから、前記のごとく、」を「相当であり、右のように、当該学校で用いられる教科書については検定を経たことを必要とすること及びその検定権者が文部大臣であることを法律によつて定め、そのための手続である検定規則その他の法規を省令に委ねる形式は、前者を勅令である中学校令、高等女学校令において定め、後者を省令である教科用図書検定規則によつて定めていた学校教育法施行前の、ことに昭和一八年における中等学校令施行前の教科書検定制度の法形式と相通ずるところがあり、このことは控訴人主張のように教科書検定の趣旨、目的、手続等を法律に定めない現行の法体制を産み出す基盤となつたことをうかがわせる反面、さきにみたようなわが国における検定制度自体の長年にわたる沿革、実績からして、教科書検定制度の目的、趣旨については、これを形式的に法律に規定することがなくても、執筆者、発行者を含む検定関係者はもとより国民にとつても自明なものとして理解が可能な事柄であつたというべく、したがって、」と改める。

(四) 同頁七行目の「根拠規定たりうるというべきである。」を「根拠規定たりうると同時に、右の各事項を法律に規定することなく、学校教育法第八八条の規定を根拠として省令以下の下位法令の規定するところに委ねても同法条の趣旨を逸脱するものではなく、憲法第四一条、同法第七三条第六号の規定に違反するものでもない、と解するのが相当である。」と改める。

(五) 同三一五頁七行目と八行目との間に、次のとおり挿入する。

「もつとも、控訴人は、学校教育法中に検定が基本的人権を最大限に尊重することになつていることが明記される必要があるにもかかわらず、その旨の規定が存しないから、同法は憲法第二六条の法律主義の要請を満たさず、また、同法中には、教育の地方自治を尊重する規定が置かれているか、少なくとも教育の地方自治を侵すことになりかねない規定の存しないことが必要であるにもかかわらず、地方自治尊重の趣旨の規定がないだけでなく、立法当初の「監督庁(すなわち都道府県教育委員会)」による検定の規定を改悪して、検定権者を文部大臣としたのは、教育の地方自治の原理に違反する、と主張する。

しかしながら、憲法第二六条第一、二項にそれぞれ『法律の定めるところにより』とある趣旨は、同条が福祉国家の理念に基づき、国において積極的に教育に関する諸施設を設け、国民の利用に供する責務を負うことを明らかにしたうえ、いかなる種類の学校を設置するか、修業年限をどのように定めるか等教育に関する事項については、旧憲法時代には勅令でこれらの事項が定められていたのを改めて法律で定めることとして法律主義を採用し、また、子女に対する国民の教育を受けさせる義務についても法律主義を採用することを示したまでであつて、このことは本条制定の際の経過に照らしても明らかである。そして、右の趣旨にそつて制定された法律としては、教育基本法、学校教育法、社会教育法、私立学校法等を挙げることができるのであつて、以上に述べたところを超えて同条が所論のような趣旨の明文の規定までを要求しているものとは解されないから、これを理由に憲法第二六条違反をいう所論は採用することができない。

次に学校教育法第二一条第一項は、昭和二八年法律第一六七号による改正前においては、『小学校においては監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。』と規定され、同法第四〇条により中学校に準用されていたが、上記改正により『小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。』との規定に改められた。そして右改正前においては、同法第一〇六条第一項に『(前略)第二一条第一項(後略)の監督庁は、当分の間、これを文部大臣とする。』との規定が置かれていたため、これにより、教科用図書の検定権者は文部大臣であるとされていたのであるが、右の改正に伴い、同法条から『第二一条第一項』が削除され、ここに小・中学校教科用図書についての文部大臣の検定権限は、暫定措置としてでなく、確定的なものとして法文上に明記されるに至つた。ところが、高等学校については、当初同法第四九条に『高等学校に関する教科用図書、入学、退学、転学その他必要な事項は、監督庁が、これを定める。』と規定され、その監督庁は前記第一〇六条第一項の規定によつて『当分の間文部大臣とする。』こととされ、右第四九条の規定に基づき、同法施行規則第五八条において『高等学校の教科用図書は、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものを使用しなければならない。(後略)』と定められていた。したがつて、高等学校については当初教科書の検定に関しては学校教育法上直接の定めが存在しなかつたのであるが、前記昭和二八年の改正の際、右第四九条から『教科用図書』が削除され、第五一条に『第二一条』が加えられた結果、右改正後の第二一条の規定が高等学校にも準用されることとなつた。しかし、控訴人主張のように、学校教育法上、立法当初を含めて教科書検定に当たる監督庁が都道府県教育委員会とされたことはいまだかつてないのである。

学校教育法第二一条、第五一条の改正の経過は右のとおりであるところ、前掲<証拠略>によれば、昭和二八年における前記改正前には、教科書検定については以下に掲げる四つの法律がそれぞれ規定を設けていた。すなわち学校教育法の前記規定(第二一条、第一〇六条)のほか、旧教育委員会法(昭和二三年法律第一七〇号)第五〇条第二号には、都道府県教育委員会は、『文部大臣の定める基準に従い、都道府県内のすべての学校の教科用図書の検定を行うこと』と規定されるとともに、同法附則第八六条には、『教科用図書は、第四九条第四号(注・教科用図書の採択に関する規定)及び第五〇条第二号の規定にかかわらず、用紙割当制が廃止されるまで、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書のうちから、都道府県委員会が、これを採択する。』との規定が置かれ、私立学校法(昭和二四年法第二七〇号)第七条第二号には、都道府県知事が行う事務として、『学校教育法の規定に基き文部大臣の定める基準に従つて行う教科用図書の検定』が挙げられる一方、同法附則第一三項には、『第七条第二項に規定する教科用図書の検定に関する事務は、用紙割当制が廃止されるまでは、文部大臣が行う。』との規定が置かれ、更に、文部省設置法附則第一〇項(昭和二七年法律第二七二号による改正後のもの)には『文部省初等中等教育局においては、当分の間、教科用図書の検定を行うこと』との規定が置かれており、これら各法条間で教科書検定の暫定的取扱いに関する規定上の表現を異にするところから、解釈上の疑義を生ずる事例もあり、更に、実質論としても、わが国のように国土が狭隘であるにもかかわらず、各都道府県の教育委員会に個々的に検定を行わせる建前では、各都道府県に適任者確保の負担や財政面で過重な出費を負わせることとなるだけでなく、発行者の側においても各都道府県教育委員会に対して各別に申請をしなければならないため無用の労を強いることとなり、また、同一の図書に対する合格、不合格が都道府県によつて区々となるという不都合を生ずること、更に、教育水準の維持向上の主要手段である教科書の特質上、検定機構の充実が殊の外重要であると判断されたことから、従来の都道府県教育委員会ないし都道府県知事をもつて検定権者とする制度が前記昭和二八年法律第一六七号による所要の改正を経て文部大臣を検定権者とする法制に改められたものであること、以上の事実を認めることができる。

ところで、現行法のもとにおいては、学校その他の教育に関する施設の設置、管理等教育に関する事務は普通地方公共団体の事務とされ(地方自治法第二条第三項第五号)、また、各種教育機関の設置、認可、職員の任免等の権限が、当該地方公共団体の長又は教育委員会に属するものとされる等(地方教育行政の組織及び運営に関する法律第二三条、第二四条、第三〇条、第三二条参照)、地方自治の原則が現行の教育行政上の重要な基本原理の一つとなつているものであることは、疑う余地がないといえるが、小、中、高等学校等において、児童、生徒によつて使用される教科書の検定権限を地方自治の一環として地方自治体の機関に委ねるか、右に法律改正の趣旨、経過として認定したような判断のもとに国の機関である文部大臣において統一して行うものとするかは、結局は、憲法上国に認められている権能に基づく国の教育政策に属する事柄であつて、立法の裁量に属するところといわざるをえないのであり、所論のように、学校教育法中に、教育の地方自治を尊重する規定が置かれていなければならないとか、教育の地方自治を侵すことになりかねない規定の存しないことが必要である、とまではいうことはできないから、同法が地方自治の原理に違反するとの控訴人の主張も採用することができない。」

(六) 同三一六頁三行目から三一九頁一〇行目までを次のとおり改める。

「前項(五)(3)の学習指導要領は、すでに第二の四で判示したように、検定基準に織り込まれてその内容となつているものであるが、その法的拘束力の有無について当事者間に争いがあるので、まずこの点について判断を示す。

前掲<証拠略>を総合すると、教育課程審議会は、昭和三一年文部大臣から『小・中学校の教育課程の改善』について諮問を受け、同三三年三月に至つてその教育課程全般についての改善方策を答申した。文部省は、右答申に基づいて調査、検討した結果、学校教育法第二〇条、第三八条、第一〇六条並びに同年八月二八日文部省令第二五号にもつて改正された同法施行規則第二五条、第五四条の二に基づいて同年一〇月、小・中学校の教育課程の改訂のため、文部省告示第八〇号として『小学校学習指導要領』を、同第八一号として『中学校学習指導要領』を公示した。次いで、昭和三四年七月、文部大臣から前記審議会に対し『高等学校教育課程の改善について』及び『高等学校通信教育の改善について』の二項目が諮問され、諮問を受けた同審議会は、同三五年三月、四月にかけて右諮問に対する答申をした。右答申においては、『小・中学校の教育課程の改訂に伴い、その基礎の上に小・中・高等学校の教育課程の一貫性をもたせるとともに、昭和三一年度の高等学校の教育課程の精神をいつそう徹底し時代の進展に即応するようにすることをねらい』として所要の改善を行う必要があるものとされた。文部大臣は、この答申をもとに、同年一〇月一五日前記学校教育法第四三条、第一〇六条及び前記による改正後の同法施行規則第五七条の二に基づいて文部省告示第九四号として『高等学校学習指導要領』(<証拠略>)を公示した。この高等学校指導要領が本件検定に際して用いられたものである。以上のとおり認められる。

ところで、第一の三で引用した原判決の理由説示のとおり、昭和二二年に当初定められた学習指導要領(<証拠略>)には、これが試案で研究への手びきである旨明記されており、この点は昭和二六年の改訂版(<証拠略>)においても異なるところはなかつたが、前記学校教育法施行規則第五七条の二は、右改正前の同条の規定が『高等学校の教科課程、教科内容及びその取扱については、学習指導要領の基準による。』と定めていたのに対し、これを改めて『高等学校の教育課程については、この章に定めるもののほか、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとする。』と定めるに至つた。この点は、小学校、中学校についても同様である(同規則第二五条、第五四条の二)。かようにして、右施行規則の改正に伴つて学習指導要領は文部省告示として公示されるようになつたが、告示はもともと行政庁の措置を国民に知らしめるための公示の形式にすぎないから、このこと自体によつて直ちに学習指導要領が法的拘束力をもつに至つたと速断することはできない。

しかしながら、文部大臣は、学校教育法第四三条、第一〇六条の規定に基づく高等学校における教科に関する事項を定める権限に則り、高等学校における教育の内容及び方法につき、教育の機会均等の確保のため、地域・学校別等のいかんにかかわらず、全国的に一定の水準を維持するという目的から、必要かつ合理的と認められる範囲で基準を設定することができると解すべきであつて、本件検定に用いられた高等学校学習指導要領は、右法条に基づいて制定された同法施行規則第五七条の二の規定に根拠を置いて定められたものであるのみならず、その内容は、第一章総則、第二章各教科、科目、第三章特別教育活動および学校行事等の三章から成るものであつて、その第一章においては教育課程の編成、全日制・定時制及び通信教育の各教育課程について、生徒が履修すべき教科・科目、特別教育活動、学校行事等を、また、第二章においては、各教科ごとの目標並びに各科目ごとの目標、内容、指導計画作成及び指導上の留意事項をそれぞれ定めているものであるが、本件に関係する第二章第二節社会中の第3日本史の項は、総量三八八頁のうちこれに費やされている部分は僅か五頁であつて、しかも、その記述内容は全般的にみて教師による創造的かつ弾力的な教育・指導の余地や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地を残しており、全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認めるに十分であつて、これが検定基準の中に織り込まれたことにより、検定基準を補充するものとして、少なくともその限度では法的拘束力を有するに至つたものと解するのが相当である。」

(七) 同三二〇頁一行目冒頭に「(一)」を加え、同三二二頁九行目から三二三頁七行目末尾までを次のとおり改める。

「ただ、不合格処分の場合には、欠陥部分と認められた箇所のすべてについてではなく、主たる例示部分のみについてその理由が告知されるにすぎず、また欠陥と評価される箇所について事前に告知を受けることもないことはさきに認定したとおりであるが、これらの点も、以下に認める当時の実情のもとにおいては是認して然るべきものと思料する。

すなわち、前掲<証拠略>によれば、昭和三七年度及び同三八年度における高等学校用教科書の検定申請は、第一次申請から第三次申請までに区分されており、第一次申請は当該年度の四月一日から五月一〇日までの間に、第二次申請(第一次に申請すべきもので提出できなかつたもの及び前年度第二次、第三次に提出して、不合格となり、再提出したものを対象とする。本件申請は両年度とも第二次に該当する。)は同じく七月一〇日から九月三〇日までの間に、第三次申請(第一次に提出して、不合格となり、再提出したものを対象とする。)は別に定める期間(被控訴人の原審における主張によれば、個々の申請ごとに不合格通知のあつた日から七五日とされた。)に申請されるべきものとされ、同じく小、中学校用教科書の検定申請(昭和三七年度の小学校分は改訂申請のみを、中学校分は前年度に提出して、不合格となり、再提出したものを対象とし、同三八年度の小学校分は新規申請と改訂申請、中学校分は改訂申請のみを対象とした。)は各年度につき九月一日から一〇月三一日までの間に申請すべきものとされていたこと、右両年度における社会科の検定申請にかかる原稿数は、昭和三七年度において高等学校の部全体で七七点、うち日本史一八点であり、昭和三八年度において高等学校の部全体で三七点、うち日本史一三点、小学校の部社会三〇点(うち改訂九点)であつた(小学校の部を除いては、さきに認定したところである。)が、検定の合格率は、白表紙本による新規申請で無条件に合格する例は通常なく、本件検定申請がなされた昭和三七、三八年当時は不合格となるものは一割五分ないし二割であり、したがつて、条件付合格となるものが八割ないし八割五分を占めていたことが認められる。そして、これらの申請原稿は教科書調査官の調査としては最終的には主査、副査の二名の調査官によつて調査意見書、評定書が作成される例であるが、その前提として、例えば、社会科用教科書については、社会科担当の全調査官による調査官会議において検討されるため、同科担当の調査官全員(当時一〇名)が各自申請原稿の全部を調査することになつていたこと、条件付合格となつた原稿については通常半月ないし一箇月後に校正刷審査の申請が行われ、次いで見本本審査が行われることとなるが、以上の原稿申請に要する期間は通常四箇月ないし七箇月であること、検定合格の教科書は官報に検定済教科書として所要の事項が公告され、発行者の届出により教科書目録が作成され、これに基づき毎年七月一日から一〇日間にわたり教科書展示会が開催されるが、教科書目録はその年の五月頃までには作成される例となつていたことは、さきに認定したところである。そこで、以上の事実関係によれば、相当多数の申請原稿について通年にわたり申請と調査とが行われており、しかも、申請原稿の相当部分にあたる条件付合格の原稿については更に多くの指摘箇所(本件教科書の昭和三八年度申請分のみについても再提出の案件であるにもかかわらず合格条件、参考意見を合わせて少なくとも三〇〇箇所が指摘されたことは、当事者間に争いがない。)について調査を続行しなければならないのであるが、予定年度に使用されるべき教科書(前掲<証拠略>によれば、昭和三七年度申請受理の分は同三九年度、昭和三八年度申請受理の分は同四〇年度に各使用されるべき教科書とされていた。)として必ず一定量が確保されなければならない、との実際上の要請もあつて、条件付合格となつた原稿については前記のような極めて限られた期間内に疑点の除かれた適切な内容の教科書であるとの判定に達することが要請されるのである。このような事情と右に認定したように、不合格原稿については同一年度内ないしは翌年度に再提出が可能であること、また、前記のように不服申立の手段が存することを併せ考えるときは、その後昭和五二年省令第三二号による全部改正後の教科用図書検定規則においては、文部大臣が不合格の決定を行おうとするときは、不合格となるべき理由を事前に申請者に対して通知しなければならず、右通知を受けた者は一定の期間内に文部大臣に対して反論書を提出することができ、反論書が提出されたときは、再び教科用図書検定調査審議会への諮問、その答申を経て合否の決定をする旨の規定が設けられた(同規則第一一条)等の改善をみるに至つたことが認められるものの、さきに認定した当時の実情のもとにおいては、前記した検定の法的性格をも併せ考えれば、検定制度それ自体としては、相応のものと評価して妨げないものというべきである。

次に、検定が公正に行われるためには検定機関に対する諮問機関である教科用図書検定調査審議会の委員やその補助機関である教科書調査官、調査員の人選も公正に行われなければならないことはいうまでもないところである。この点において、さきに判示したように審議会の委員及び調査員は文部大臣によつて任命されることになつており、また、教科書調査官に文部省の職員を充てるとする人選方法は、これらの者の選任について文部大臣の恣意が加わるおそれなしとしないが、そのような危険を包蔵するからといつて、そのことから直ちに当時の検定制度が法治主義の要請する手続的保障に欠けるものと断定することは相当でなく、具体的にみてそのような運用がなされたと認められる場合にはじめてこれを肯定すべきものと解される。

しかるところ、前掲<証拠略>(<証拠略>としての提出部分を含む。)及び<証拠略>によれば、審議会委員のうち教育職員については、主として東京都教育委員会に、補充的に千葉県、神奈川県等近隣の県教育委員会に依頼して推薦を受けた小、中、高等学校の現職の教職員(実際上は校長)の中から、また、学識経験者については、大学の研究室あるいは学界を代表する有識者に依頼するなどの方法により推薦を得た者の中から任命するのが例であり、調査員については、教科用図書検定調査審議会令の規定により文部大臣が徴した審議会の意見に従い、教育現場の教職員については都道府県教育委員会の推薦を得、また、大学関係者については大学の長の推薦を得てそれぞれ任命するのが例であること、教科書調査官についても関係の学会や各大学に依頼して推薦を得た者を任命する方法をとつていたことを認めることができ、本件における各検定の当時、文部大臣による右審議会の委員、調査員、教科書調査官の各任命の一部又は全部が控訴人の申請原稿に対する合否の判決に殊更不利益を与えるような構成となるような目的をもつて行われたとか、文部大臣によつてそのような方向への示唆が行われた等の事情を見出すに足りる証拠はない(審議会の委員等の個人的な政治的意見のいかんは、本件において当裁判所の審査の対象となるものではないし、また、学問的見解等において控訴人のそれと異なる者が文部大臣により選任されたからといつて、そのことから直ちに不公正な任命が行われたことになるものでないことはいうまでもないところである。)。

してみると、本件検定当時の教科書検定制度は、右制度をめぐる問題点についての一般的認識が必ずしも十分でなく、ひいては関係者間においてもその手続的保障の整備に対する要請がさして高くなかつたこと弁論の全趣旨に徴し明らかな当時の情勢下としては、右に認定した程度の手続及び検定担当者の人選の実態は、いまだ手続的保障に欠けるとまでいわなければならないものではなかつたものと認めるのが相当であり、控訴人のこの点に関する主張は理由がない。

(二) 次に、控訴人は昭和三七年度検定の適正手続違反をいうが、当時における実際の検定制度の運用状況からみて止むをえない措置であり、その手続及び検定担当者の人選の実態が適正手続の要請に反するとまでいわなければならないものではなかつたと認めるべきことは、右に判示したところである。

次に、昭和三八年度検定の適正手続違反をいう点につき判断すると、控訴人は約三〇〇に上る多数の指摘箇所について短期間のうちに対応を迫る条件指示がなされ、また、その後も新たな指摘箇所を含めた追加修正指示がなされた点の違法をいうが、右検定のための原稿は著作者である控訴人自身の執筆にかかるものであり、控訴人は著述内容に精通する専門家であるから、短時日の間にこれらの指示に早急に対応することがさして困難であるとはいえず、手続的正義に反する程度にまで過酷な経過であるとはいいがたい。そして、昭和三九年三月一九日に渡辺教科書調査官から控訴人及び三省堂担当社員らに伝達された指摘箇所がA意見を付されたもの七三箇所、B意見を付されたもの二一七箇所であつたことはさきに判示したところであるが、これに対し控訴人側では同年四月七日までにA意見の付された箇所については異議申立をせずにこれを修正し、また、B意見の付された箇所についてはその一部を指示どおり修正し、その余については修正に応じがたい旨の意見を付して、右同日三省堂を通じ内閲本の提出をみたことは、前認定(第三で訂正引用した原判決の理由説示参照)のとおりであり、また、その主張するようにその後に追加修正の指示がなされたこともさきに同所において認定したとおりである。しかしながら、修正指示が再度にわたつたとしてもそのこと自体は何ら手続的正義に違反すると評するに足りるものではないし、また、控訴人が再度の指示に応じて修正した内閲本を翌日直ちに提出したこともさきに認定したところであるから、以上の経過からすれば、控訴人にとつてこれらの指示、対応が殊更に苦痛であつたとか、客観的にみて不公正であつたとは認めがたいというべきである。もつとも、控訴人は、修正指示に当たつては参考意見たるべきB意見の箇所についても修正を強要され、時間的制約と相まつて修正に応ずることを余儀なくされたと主張し、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果中にはその趣旨にそう供述があるが、しかしながら、さきに第三の二で訂正引用した原判決理由中に認定したような事情のもとにおいては、控訴人が、原審証人小松謙二郎の証言にみられるように、時間切れによる当該年度発行不能の事態の発生を回避するために、発行者である三省堂社員の提言を容れてB意見による修正に応ずることとなつたとしても、そのことから直ちに修正が強要されたとすることはできないのであり、この点に関する控訴人本人の前記供述をそのまま採用することはできず、他に控訴人の主張を認めるに足りる的確な証拠はない。したがつて、右の点においても、本件検定手続が手続的正義に反するとの控訴人の主張は理由がない。」

五  結語

以上の検討の結果から明らかなように、当裁判所は、控訴人が本件各検定処分当時の教科書検定制度を目して違憲違法とする主張は、すべて理由がなく、排斥を免れないと結論するものである。

第五本件検定処分における適用違憲の主張について

一  右に関する控訴人の主張(別添(二)参照)の要旨は、昭和三七、三八両年度の本件各検定処分ないし検定意見(以下本項では単に「本件検定処分」という。)が憲法・教育基本法に違反するとの主張を構成するにつき、違反の態様を、(1)(教育内容介入性)

本件検定処分は、憲法・教育基本法によつて教科書執筆者に保障されている教育の自由を侵害し、教育に対する不当な支配に該当する、(2)(学問の自由侵害性) 本件検定処分は、憲法第二三条の保障する学問の自由を侵害している、(3)(狭義の思想審査性)

本件検定処分は、検定当局が特定の思想的立場から好ましくないと認める記述を排除し、好ましいと認める記述を書き込ませようとするものであつて、憲法第二一条、第二六条、第一三条に違反する、との三種に大別し、昭和三七年度原稿における不適切箇所及び同三八年度原稿に対する修正指示箇所につき、これらのそれぞれについて右三種のうちの該当種目を挙げて、文部大臣によつて示された検定意見につき、教科書検定関係法令の適用の過程における違憲違法を主張するものである。

二  控訴人の主張の当否を検討するに必要な事実関係は、次のとおりである。

1  控訴人の主張にかかる昭和三七年度申請原稿における不適切箇所及び同三八年度申請原稿における修正指示箇所とされた各記述に対する文部大臣の検定意見の内容(A・B意見の区分を除く。)は、後記第六において当該各指摘箇所について確定するとおりであるのでこれによる。

2  昭和三七年度検定処分における各指摘箇所のA・B意見の区分については、次の(一)ないし(四)のとおり訂正するほか、原判決の理由説示(三六〇頁四行目から三六六頁五行目まで及び同別紙「昭和三七年度検定におけるA・B意見の区分表」〔原判決六九一頁から七〇四頁まで(区分表は<略>)〕中の必要条件欄を除く部分、以下単に「区分表」という。)を引用する。

(一) 原判決三六〇頁七行目の「調査官」から同末行の「であり、また、」まで及び三六一頁五行目から三六二頁一行目までを削除する。

(二) 同三六二頁二行目の「もつとも」を「但し」と改め、三六四頁三行目から四行目にかけての及び同七行目の各「別紙(二四)」をそれぞれ「別紙(二四)及び本判決別添(八)」と改める。

(三) 同三六四頁一〇行目から三六五頁五行目までを削除し、同頁六行目冒頭の「(4)」、同八行目冒頭の「(5)」、三六六頁一行目冒頭の「(6)」を順次「(3)」、「(4)」、「(5)」と改める。

(四) <略>

3  昭和三八年度検定処分における各指摘箇所についてのA・B意見の区分は、次のとおりである。

(一) 整理番号〔三・重八〕、〔五・重九〕、〔七・重一五〕はいずれも最初の意見と再度の意見がともにB意見であることについて、〔重一一〕は最初の意見がA意見、再度の意見がB意見であることについて、それぞれ当事者間に争いがない。

(二) 同〔四〕、〔一〇〕、〔一二〕は、いずれもその意見がA意見であることについて、〔六〕、〔八〕、〔重六〕、〔重七〕、〔重一〇〕はその意見がB意見であることについて、それぞれ当事者間に争いがない。

(三) 同〔一・重四〕、〔二・重五〕、〔九・重一七〕、〔一一・重一八〕、〔一三・重一九〕、〔一四・重二〇〕は、いずれも最初の意見がB意見であることについて当事者間に争いがなく、前掲<証拠略>によれば、これらの箇所に付された再度の意見もまた被控訴人主張のとおりB意見であつたと認められる。

(四) 同〔重一二〕、〔重一三〕、〔重一六〕は、前掲<証拠略>によれば、いずれも被控訴人主張のとおりB意見であつたことが認められ、また、〔重一四〕については、検定文書である右<証拠略>にはA・B意見の区別についての記載はないが、同一内容である昭和三七年度整理番号〔一一〕に対する意見が前記A・B意見の区分表記載のとおりB意見であること、右乙号証の該当部分に摘記されている意見の内容に照らすときは、右同様B意見が付されたものと認めるのが相当である。

三  よつて案ずるに、高等学校教育もまた普通教育の一環としての高等普通教育の分野を担当するものであり、教育の機会均等を確保する上からも地域・学校別等のいかんにかかわらず、全国的に一定の水準を維持すべきことが強く要請されるのであつて、その際、公権力の不当、不要な介入が排除されるべきことは当然であるとしても、国が高等学校教育の特質等を配慮しつつ、許容される目的のため必要かつ合理的と認められる関与ないし介入をすることは、それが教育の内容及び方法に関するものであつても憲法上、また教育基本法上許されるものであること、したがつて、公教育における教育の中立・公正及び機会均等の確保並びに教育水準の維持向上を目的とする教科書検定における審査にあつては、教科書の誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りその他控訴人指摘のような個々の記述内容の当否と直接かかわりのない事項にとどまらず、それを超えてその記述内容にも及びうるものであり、それは憲法第二六条ないし教育の自由を侵害するものではないこと、本件検定処分当時の検定基準の内容は、前記全国的な一定水準の確保及び教育の中立・公正保持の要請からみて教育基本法の趣旨を逸脱するものではないこと、学問の自由の観点からみても、教科書の特殊性にかんがみ、教科書の執筆者にはその執筆に関して完全な研究成果の発表の自由が認められるものではないこと、教科書検定に際して思想内容に立入ることがあるとしても、それは当該原稿の記述が、中立・公正の保持の必要上、教科用図書におけるそれとして適するかどうかという限度で審査の対象となるにとどまるものであり、教科書検定制度は、憲法第二一条第二項にいう「検閲」に該当するものではないこと、教科書検定の法的性格は、文部大臣が新規に著作された図書又はすでに発行ずみの特定の図書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において教科書として使用しうる法律上の資格を付与、設定するか否かを審査決定する行政処分であり、検定合格処分により、当該図書の著作者又は発行者に対し、右の法律上の資格が付与設定されるものであること、以上のことは、さきに第四において判示したところにより明らかというべきである。

そこで、これらのことのほか、第四に判示したところを前提として控訴人の主張について検討してみるに、第二の一、二で訂正引用した原判決理由中に認定した各年度における検定手続の態様、後に第六に認定判断する被控訴人の検定意見の具体的内容及びその当否、その他本件記録によつて窺われる諸事情を勘案しても、本件検定処分において、検定関係法令が控訴人主張の趣旨において違憲的に又は教育基本法の趣旨に反して適用され、また運用されたと認めるに足りる事情は、ついにこれを見出すことができない。

そうだとすると、控訴人のいわゆる適用違憲の主張はすべて理由がなく、排斥を免れないものといわざるをえない。

第六本件検定処分における検定権限濫用の違法

一  控訴人の主張の要旨

控訴人の主張(別添(三)参照)は、教科書検定処分が裁量処分であることを是認する見地に立つたうえ第三次主張として、裁量権の限界の踰越又は裁量権の濫用による検定処分の違法を主張するものであり、その要旨は、次のとおりである。

1(一)  教科書検定処分における裁量権行使の限界として、第一に学校教育法第二一条第一項の立法目的に内在する限界を挙げることができ、これは、制度の沿革と行政対象が教科書であることに由来する検定目的の消極性と調査範囲の大綱性ということである。これらの観点から、審査の対象たる教科書の記述の誤りが客観的に明白であつて、当該教科書を教材についての選択権を持つ教師の選択の対象から予め排除しても教師の右選択権を侵害したことにならないといえる場合にのみ検定権限の行使が許されると解すべく、また、検定基準のあり方としては、基準となる規定自体が細目的でないとともに、当該規定からの明白な逸脱のみを規制する趣旨が内在していることが必要であるということになる。

(二)  検定基準の各条項の解釈適用も同様に、消極性・大綱性・明白性の枠内で客観的・限定的にされるべきものであるところ、昭和三七年度検定における不合格処分の理由において、検定基準所定の必要条件のうちでA意見の根拠として援用されることが多いのは、「正確性」、「内容の選択」、「組織・配列・分量」及び「表記・表現」の項目であるので、これらにつき各項目の適用上の限界を述べる。

(1) 「正確性」については、誤記・誤植を含む客観的に明白な誤りと取り上げるべきことに全く異論の存在しえない歴史的事実の脱落とか、当該事実の評価について学問的に全く根拠を持たない評価を下しているという意味で、明白に不正確な記述、及び客観的に存在する異説に関しその存在を明確かつ積極的に否定したり故なく非難するなどの、明白に「じゆうぶんな配慮」を欠いた方法で自己の「一面的見解」のみを展開した記述等を除去することが、その限界として許されるというべきである。

(2) 「内容の選択」については、検定の消極性からして、同項(1)ないし(3)により目標の達成に適切でないとして排除しうるのは、単に目標にそわないとか、目標達成上十分でない、という程度に目標との関係で齟齬があるというにとどまらず、目標の達成を積極的に阻害することが客観的に明白といえる程度の記述に限られると解すべく、また、同項(4)ないし(7)の解釈運用としても、各項目の設定する要件が多義的・論争的であることにかんがみ、一見明白にこれらの基準から逸脱した記述を排除することだけが許されると解すべきである。

(3) 「組織・配列・分量」については、この基準を単純に文理解釈を施して個々の記述の組織・配列・分量の当否までを行政当局が審査しうると広く解すべきでなく、昭和三一年検定基準(昭和三一年告示第八〇号)に定められていた程度の大綱的な範囲の組織・配列・分量につき明白に不適切なものがある場合に、これに介入しうるにとどまるものと解すべきである。

(4) 「表記・表現」については、この基準は、表記・表現の不適切性、文章の冗長性ないし粗雑性が、教師の補足説明や通常生徒が利用しうるような参考資料の存在を考慮に入れても、なお生徒に理解させることが困難な程度に明白である場合にのみ、適用することが許されると解すべきである。

(三)  また、右検定基準の上位に位する教科用図書検定規則並びにいわゆる「合否判定内規(昭和三四年一二月一二日教科用図書検定調査審議会決定)」及び「教科書調査官申し合わせ」の適用限界については、別添(三)第三章第一節第二の一(二)に主張するとおりであり、後二者は、被控訴人が当審で主張する「運用方針」(別添(七)第三章第二節)と並んで、検定の消極性・大綱性を趣旨とする立法目的を侵害するものである。

2  次に、裁量権行使の限界の第二として、平等原則がある。これを教科書検定に対して適用すれば、同一の検定基準のもとでは同一の内容の処分がなされるべきであるということであり、この場合における比較の対象は、控訴人以外の者の申請に対するそれだけでなく、控訴人自身の他年度申請に対する処分も含まれるというべきであり、後者との比較で本件検定処分が不利益であれば、「行政行為における一貫性の欠如」という瑕疵をも帯有することになるのである。

3  第三の裁量権行使の限界は、比例原則であつて、なされるべき行政処分と意図された目的の実現との間に合理的な比例関係を要求するというものである。これを教科書検定に適用するならば、検定の目的は教科書から欠陥を除去することにあり、この目的実現のための不合格処分ないし強制力をもつ修正命令、すなわち条件付合格処分におけるA意見が一般的にあるいは少なくとも個々の特定の事例に即して必要不可欠であるといえるかどうかが吟味されなければならないのである。一般に教科書検定において、原稿の欠陥が重大・明白であればあるほど、これを指摘する指導助言のみによつて任意に是正される余地が多く、逆に重大性・明白性に乏しい欠陥ほど、欠陥というべきものか否か等につき検定権者と申請者との間に論議が生じやすいから、不合格処分ないしA意見の発出に先立ち、指導助言を前置することが比例原則の要請するところであると解される。ところで、控訴人の昭和三七年度申請の原稿は、本文約一七万二〇〇〇字(目次、史料、索引を除いても約一三万一〇〇〇字)、脚注約一万二〇〇〇字、図表・写真等の説明約一万三〇〇〇字、合計約二〇万字から成るのであるが、その中で、不合格理由とされた三二三箇所の関係記述の量(検定意見に従うことにより削除、訂正、付加しなければならない文字の数)は、その一パーセントにも満たないのであり、この一パーセントにも満たない部分の当否を理由として原稿全体の不合格処分が決定されたのである。かような事情のもとで、文部大臣が指導助言を前置せず、いきなり不合格処分を行つたこと、あるいは少なくとも条件付処分でまかなうべき場合であるのに不合格処分に及んだことは、比例原則に違反するものである。したがつて、昭和三七年度不合格処分に関しては、個々の検定意見の当否に入るまでもなく、比例原則違反として裁量の限界を越えた違法がある。なお、B意見は、前記合否判定内規において指導助言としての性格を与えられているのであるが、それにもかかわらず、右不合格処分の理由中にB意見該当箇所を算入したのは、それ自体において比例原則違反を犯すものである。

4  裁量権行使の限界についての総括的主張は以上のとおりであるところ、昭和三七年度検定分については、検定法令に内在する裁量限界を逸脱し、また裁量権を濫用したものとして一五九箇所(但し、正確には、のちに判示するとおり整理番号〔四七〕を加えて一六〇箇所)についての検定意見を、平等原則ないし行政行為の一貫性の原則に違反するものとして九一箇所の検定意見を挙げることができ、また、昭和三八年度検定分については、右に挙げた前者に当たるものとして合計二二箇所の検定意見を挙げることができ、これらの裁量権の逸脱により、両年度の検定処分ないし検定意見はいずれも違法を免れないことは明らかである。

二  当裁判所の総論的判断

控訴人の主張のうち、昭和三七年度検定処分についての比例原則違反を理由とする裁量権濫用の主張は、個別箇所についての検定意見の当否とは関係なく、不合格処分自体の違法を攻撃するものであるので、まずこの点を取り上げ、次いで検定処分の裁量の限界いかんについての当裁判所の見解を明らかにし、その余については、次項以下における個々の指摘箇所の検討の際に当裁判所の判断を示すこととする。

1  そこで、控訴人の比例原則違反の主張について判断する。

控訴人は、昭和三七年度検定処分においては、字数にして原稿全体の一パーセントにも満たない部分の当否を取り上げて原稿全体について不合格処分をしたのは、比例原則に違反するものであり、裁量限界を越えた違法があるという。

しかしながら、検定の申請に対する合格、不合格の判定は、さきに第二において訂正引用した原判決が認定したとおり、教科用図書検定調査審議会が適法に定めた「中学校および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」及び「昭和三六年度以降使用小学校教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」に定められた手続と方法によつて決定されるのであり、それによれば、検定の際の評定は、絶対条件については合、否いずれかに判定されて、合格するためには三項目のいずれもが合と判定されなければならず、また、必要条件については第一ないし第九項目が七つの評定尺度によつて検討されたうえ、致命的と認める欠陥があつたり、又は大小の欠陥が甚だしく多いときは、当該項目には欠陥度の最も高い「×」記号が付されるのであり、右記号が付された項目があるときは他がいかによくてもその項目の欠陥だけで全体として不合格となるものとされるが、「×」記号が付された項目がないときは、総点を一〇〇〇点として検定基準の第一ないし第九項に所定の配点がされたうえ、減点制を採用し、その合計が八〇〇点以上のもの及び八〇〇点に満たない場合に第一〇項目について別に定められた評点を加えて八〇〇点以上になつたものを合格とすることとし、絶対条件と必要条件のいずれもが合と判定された場合に合格となる、というのである。右の合否判定の方法は、教科書の量的確保の要請の面からみても妥当な内容のものと解されるところ、右によれば、致命的と認められるような欠陥が一つでもあるときは、全体として不合格となるのであるが、このことは教科書検定の本来の目的が教育のために有害な図書を排除するという点にあることにかんがみ、是認できるものといわなければならない。右に説示したところによれば、合否の判定は、単に申請原稿のうち不合格理由部分の占める分量のみで決まるものではないというべく、したがつて、右部分の量が一パーセントにも満たないことを理由として比例原則違反をいう所論の理由がないことは、自ずから明らかというべきである。しかして、控訴人は、不合格処分ないしA意見を付するに先立つて、指導助言を前置することが比例原則上要請され、これを欠く昭和三七年度検定処分は違法であるとも主張するが、そのような前置手続をとらないことが手続的保障に欠けるとまでいえるものでないことは、さきに第四の四の2及び3に判示したところであり、所論のような方法をとるか否かは、要するにそれが妥当であるか否かの問題であるにとどまるから、結局昭和三七年度検定処分における比例原則違反をいう控訴人の主張は理由がない。

なお、控訴人はB意見は合否判定内規において指導助言の性格を与えられているにとどまるにもかかわらずB意見該当箇所をも不合格の理由に加えたのは比例原則に違反するとも主張する。B意見には、検定実務上いわゆる欠陥BとベターBとの区別があり、欠陥Bについては評定記号の決定に当たつて減点の対象とされることがあることは、さきに原判決を訂正引用した第二の六において認定説示したところである。しかしながら、右に認定したとおり減点の対象とされるのは、例えば総量三〇〇頁の原稿について必要条件中のある項目に関し三〇ないし四〇箇所にも及ぶ欠陥Bが付されたような場合に、一段階下の評定記号が付されるというのであつて、相当量の欠陥箇所を総合して評価されるものであり、そのこと自体首肯するに値する判定方法ということができるのみならず、右に判示した取扱いは、条件付合格の決定前における評定方法の一つであり、条件付合格とされたのちのB意見の取扱いに関する内規の定めとは全く無関係であつて、これに反するものではないから、B意見箇所が不合格判定の要素に加えられることがあつても、これを目して違法とするのは相当でないというべきである。よつて比例原則違反をいう控訴人の主張は理由がない。

2  学校教育法第二一条第一項が文部大臣に対し教科書検定の権限を付与したものと解すべきものであることは、すでに第二において引用した原判決理由の判示(第二の二)によつて明らかであるところ、文部大臣による検定権限の行使がいかなる程度に法令によつて覇束されるものであるかを明らかにした規定は存しない。そして、検定の対象が教科書の記述内容等であつて、児童、生徒の心身の発達段階や学習の適時性が考慮されることを要するなど、高度の教育専門性・技術性、すなわち教育的配慮が求められること及び前述した教科書検定の法的性格、本件各検定処分当時の教科用図書検定基準の内容に徴し、文部大臣が教科書検定に当たつて付する検定意見ないし合否(条件付合格も含む。)の処分は、事柄の性質上、本来その裁量に任されているものと解するのが相当である。この点に関し、控訴人は、教科書検定の消極性、大綱性の原則から、審査対象たる教科書の誤りが客観的に明白であつて、当該教材を教師の選択の対象から予め排除しても何ら教師の教材選択権を制約したことにならないといえる場合にのみ検定権限の行使が許されると主張し、後記各箇所についての違法の主張もこの見地に立つものであることが明らかであるところ、右主張は、学校教育法第二一条第二項の規定をもつて教科書を含めた教材の選択権ないし教材の有益適切性の判断権が教師に存することを前提とするものであるが、同条項をもつてそのように解すべき根拠は見出しがたいから、その採りえないことは明らかである。

ところで、教育基本法が憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通ずる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであつて、一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の定めのない限り、できる限り同法の規定及び同法の趣旨、目的にそうように考慮が払われなければならないと解すべきであること(前掲昭和五一年五月二一日大法廷判決)にかんがみれば、文部大臣の検定権限の行使もまた、同法及び同法と同時に制定され、かつ、右検定権限を定めた学校教育法の目的、趣旨に合致するようになされるべきことは当然である。そして、学校教育法第八八条、第一〇六条の委任に基づき制定された(右委任が合憲かつ適法であることは、すでに原判決を訂正引用した第四の四の3において判示したとおりである。)教科用図書検定規則及び教科用図書検定基準並びにその実質的内容を構成している学習指導要領その他関係法令、内規もこの趣旨にそうものと認められるから、結局文部大臣の検定権限の行使は、その裁量に属するとはいえ、右の教科書検定関係法令の各規定の趣旨に則つてなされなければならないものというべく、したがつて右権限の行使が上記の趣旨に合する合理的範囲にとどまるものであるかぎり、当不当の問題を生ずることはあつても国家賠償法上違法の問題を生ずる余地はないというべきであるが、文部大臣の判断が事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量の認められた目的に違反してその行使がなされたとき、ないしは恣意的に平等原則違反の行使がなされたときは、裁量権の範囲を踰越し又はその濫用があつたものとして、その処分は同法上違法となるものと解するのが相当である。そして、裁判所が検定処分の違法の成否を判断するに当たつては、文部大臣と同一の立場に立つて、どのような検定処分をすべきであつたかを判断し、その結果と当該検定処分とを比較してこれを論ずべきものではなく、右の趣旨において、文部大臣のなした検定処分が著しく不当で裁量権の範囲を越え又はその濫用があつたと認めるべきかどうかについて審究すべきものであり(最高裁判所昭和五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁、同五二年一二月二〇日第三小法廷・民集三一巻七号一一〇一頁参照)、このことは文部大臣が個別に付した検定意見についても同断であつて、この場合、文部大臣が付した検定意見に対しては、それらが教科書検定関係法令の趣旨に即し、教育の中立・公正の確保及び教科用図書内容における一定水準の維持並びに教育的配慮の観点に基づいて示されたもので、基礎たる事実関係ないしその見解に相応の根拠がある限り、著しく不当であるとして、裁量権の範囲の踰越ないし濫用による国家賠償上の違法があるとの評価を下すべきではないのである。

ただ、本件各検定処分において文部大臣により付された検定意見には、A・Bの二種があること、及びB意見の内容については、第二において訂正引用した原判決理由(第二の五の2)認定のとおりであつて、検定実務上の取扱いを斟酌してもなお、両者には自ずから軽重の違いがあることは、同所において判示したところである。したがつて、裁判所が文部大臣の付した各検定意見につき、裁量権行使の当否を判定するに当たつても、右述のA・B意見の実質に即した判断をなすべきことはいうまでもないところであり、当裁判所は検定意見各指摘箇所についての判断に当たり、右の点にも留意してこれをなすものである。

そこで、以下の検討においては、右の立場から判断を示すこととする。

三  昭和三七年度検定における裁量権濫用の違法

控訴人は、昭和三七年度分原稿については、具体的に検定意見の違法を主張する一八三箇所を「第一 教科書検定法令に内在する裁量限界」と「第二 平等原則から導かれる限界」とに大別し、更にそれぞれを項に分けて主張しているが、以下の判断においては、便宜上、右第一、第二の区分に従い、その中を適宜区分した上、控訴人の主張の順序により各指摘箇所について判断を示すこととする。

なお、右の判断に当たり、それぞれの冒頭に、前提となる事実関係として、昭和三七年度白表紙本(前掲<証拠略>)の原稿記述の内容とこれに対する検定意見の内容とを各指摘箇所ごとに掲記するが、後者の内容については、第五の二で引用した原判決理由(原判決三六〇頁)中に掲記の各証拠及び弁論の全趣旨に照らせば、被控訴人が検定意見の基礎たるものとして原審第七ないし第九準備書面によつて主張した不適切理由の内容(以下、これをも含めて適宜単に「検定意見」ともいう。)は、検定に当たり検定関係文書に簡略に記載された内容(その一部が口頭により告知されたことは、第三の一で訂正引用した原判決理由において認定したとおりである。)を整理して主張したものであると認められるので、後記の個別箇所における検定意見の認定においても、認定資料として用いた検定関係文書の記載、担当調査官の証言内容と弁論の全趣旨を参酌してその趣旨において異ならないと認められる限り、上記各準備書面における主張によるものとした(記録によれば、被控訴人は、当審の口頭弁論終結までの間に、右各準備書面による主張と趣旨において異なる主張をし、また追加主張をしたものもなくはないが、当審の被控訴人最終準備書面第三部(別添(八))における検定意見の主張は、前記原審第七ないし第九準備書面の記載によつていることが明らかである。したがつてまた、右の主張の変更、追加が恣意的であるとする控訴人の主張については、原則として判断を示さない。)。また、各指摘箇所の表題は、便宜、原則として控訴人が付したものを用い、表題下の(A)はA意見を、(B)はB意見を第五の二において訂正引用した原判決理由における認定によつて示し、本判決四八四頁の一行目までの分その下の頁数は、前記白表紙本における所在を示す。

1  教科書検定法令に内在する裁量限界踰越の違法

(一) 「正確性」(以下、これに続く数字は各必要条件項目中の細目番号を示す。)における裁量権濫用の主張について

〔六二〕 最澄の生年 (A) 四〇頁

(1) 申請原稿の記述及びこれに対する検定意見の内容についての事実関係(以下単に「事実関係」という。)は、原判決四二七頁一行目から五行目までの記載を引用する(但し、同頁一行目の「本件原稿」の前に「区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、」を加え、同四行目の「正確性」を「正確性(1)」と、同四行目から五行目にかけての「は当事者間に争いがない」を「が認められる」と各改める。)。

(2) <証拠略>を総合すれば、最澄の生年が何年であつたかについては、これを直接に明示した独自の信頼できる史料がないため、古来、最澄が後年の一定時期において何歳であつたかを示す史料により、これから逆算して生年を推定する手法によつてきたこと、かようにして、弟子仁忠の著わしたとされる「叡山大師伝」が八二二年に没した際の年令を五六歳と記したところから、これを基本史料とし、他の同旨の史料を合わせ、右記述から逆算した七六七年が最澄の生年とされてきたこと、しかしながら、他方において、最澄に関しては種々の公文書や自筆の文書も残されており、これらから逆算すると七六六年になることから、江戸時代末期に七六六年説が主張されるに至り、その後は、七六七年説を支持しつつ、これに疑問の余地を残すものを含めて両説が併存するようになつたが(右飯田意見書は、他の生年を推測させる史料も存するという。)、昭和四〇年に嗣永芳照が七六七年説の難点を指摘し、七六六年説を唱えるまでは七六七年説が通説の地位を占めていたこと、そして右嗣永見解が示されたのちは七六六年説を支持する見解と従来の通説を支持する見解とが相半ばしている状況にあること、村尾調査官は本件検定の当時、信憑性の高い文献はすべて七六七年説をとつていると考えていたところから、本件原稿記述を誤記と考えて検定意見を付したものであること、控訴人としては七六六年説を学問的に正しいものとして記述したものであること、以上の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。以上によれば、文部大臣の補助者である村尾調査官の認識と控訴人の執筆意図との間には齟齬があつたものであり、同調査官において、本件原稿記述を誤記として検定意見を付したことは当を得なかつたものとしなければならないけれども、結局において文部大臣としては、本件検定当時の通説である七六七年説に合致しないものとして検定意見を付したことに帰するから、従前述べてきた教科書の特質に照らし、当時の通説が最澄の生年を七六七年とするものであつた以上、これに基づき、本件につき正確性(1)の観点からA意見を付したことをもつて、いまだ著しく不当で、裁量権の範囲を踰越し又はこれを濫用した(以下、単に「著しく不当である。」という。)とすることはできない。

(3) 次に、控訴人は、本件原稿記述の目的は、最澄の活動した年代を大づかみに知らせることにあり、そのため傍注の形をとつたのであるから、このような記述の目的を考慮しないで介入したのは違法であるという。しかしながら、執筆目的が奈辺にあるにせよ、また、記載の場所が本文であるか、傍注であるかを問わず、記述内容に問題点が存する以上これを指摘することの許されるのは当然というべきであり、控訴人の主張は理由がない。

(4) なお、検定意見は一貫性を欠くとする所論については、のちに、3において判断する。

〔九七〕<略>

〔九九〕<略>

〔一七三〕<略>

〔二一五〕 イギリスのマライ半島領有 (A) 一九五頁

(1) 事実関係は、原判決五五五頁八行目から五五六頁四行目までの記載を引用する(但し、五五五頁八行目の「本件原稿」の前に「区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば」を加え、五五六頁三行目の「正確性」を「正確性(1)」と、三行目から四行目にかけての「は当事者間に争いがない」を「が認められる」と各改める。)。

(2) <証拠略>を総合すれば、イギリスのマライ半島領有の歴史的経緯、態様としておよそ次のとおりの事実が認められる。すなわち、イギリスは、一八世紀に入りオランダに対抗するためマライに基地を求め、一七八六年にペナンを、一八〇〇年にはその対岸のウエルズリーをそれぞれケダー王より譲り受けて領有し、ついで一八一九年にはジヨホール王と約してシンガポールに基地を建設し、一八二四年にはこれを買収し、また、同年オランダとの間でロンドン条約を締結してスマトラとの交換にマラツカを譲り受けることにより、マライ半島における貿易上の最重要拠点を領有するに至るとともに、同条約によりマライ半島はイギリスの勢力圏となつた。その後、一八六七年には、ペナン、シンガポール、マラツカの三地域がイギリス政府の直轄植民地となつた。ついで、イギリスは、一八七四年から一八八八年までの間に、ペラ(ペラク)、セランゴール、ネグリ、センビラン、ジヨホール、パハンの五州を保護領とし、一八九五年には右五州のうちジヨホールを除く四州をもつてマライ連邦が形成され、また、一九〇九年には、タイとの間のバンコツク条約によつて、ケダー、パーリス、ケランタン、トレンガヌの各州につきタイから宗主権を譲り受けて保護領とし、同じく保護領のジヨホールとともにマライ非連邦州を成立させ、これらをすべて海峡植民地総督の管下においた。このようにして、イギリスによるマライ半島の領有は、百余年の歳月をかけて行われた。以上のとおりである。

右に認定したイギリスによるマライ半島領有の経緯によれば、イギリスはマライ半島を一八八六年以降の時期においてはじめて領有を開始し、これを完成したというのではなく、むしろ一八二四年までには同半島の重要拠点であるペナン、シンガポール、マラツカの領有を終えているものであるところ、本件原稿の記述をもつてすると、イギリスは一八八六年まではマライ半島に全く領有地をもたず、同年以降はじめてその領有を開始したかのように生徒に誤解を生じさせるおそれが多分に存するといいうるから、したがつて、文部大臣が、前記の趣旨により正確性(1)の観点からA意見を付したことをもつて、著しく不当であるとまではいいえない(前認定によれば、イギリスのマライ半島領有の時期を一八二四年とした検定意見も、正確性を欠くきらいが存するといわざるをえないが、右意見の趣旨とするところを了すれば、このことは上記の判断を左右するに足りるものではないとすべきである。)。

〔一九〕<略>

〔二三〕<略>

〔二四〕<略>

〔二七〕<略>

〔三〇〕<略>

〔三七〕<略>

〔六一〕<略>

〔七一〕<略>

〔一一七〕<略>

〔一二七〕<略>

〔一三一〕<略>

〔一三二〕<略>

〔一五六〕<略>

〔一八七〕<略>

〔一九三〕<略>

〔一九七〕<略>

〔二二四〕<略>

〔二二七〕<略>

〔二三四〕<略>

〔二三七〕<略>

〔二三八〕<略>

〔二五七〕<略>

〔二七三〕<略>

〔二八〇〕<略>

〔二八一〕 基地 (A) 二五八頁

(1) 事実関係は、原判決六〇四頁末行から六〇六頁五行目までの記載を引用する(但し、六〇四頁末行の「本件原稿」の前に「区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、」を「加え、六〇五頁四行目の「正確性」を「正確性(2)」と、同行から五行目にかけての「は当事者間に争いがない」を「が認められる」と各改める。

(2) 昭和二七年四月発効の日米安全保障条約(以下、本条においては「旧安全保障条約」という。)第三条に基づく行政協定第二条には、「基地」(base)なる用語は用いられず、「施設及び区域」(facility and area)という用語が用いられ(もつとも、右条約第二条には「基地」という用語が用いられているが、その内容は、わが国が米国以外の第三国に基地、基地における若しくは基地に関する権利等を許与する場合には、米国の事前の同意を要する旨を定めたものであつて、米国自体のそれに関するものではない。)、昭和三五年六月発効の日米相互協力及び安全保障条約(昭和三五年条約第六号)第六条及び同条に基づく地位協定(昭和三五年条約第七号)においても、右の「施設及び区域」なる用語が踏襲されているところ、<証拠略>によれば、旧安全保障条約の審議に際し、政府は国会において、基地という場合には、一定の地域について一定期間相手国に管轄の全部を委譲したものであつて、安全保障条約においては、そのような基地を設けるつもりは毛頭ない旨を繰り返し述べていること、米国軍隊が外国領土内に駐留する場合の法律関係には三種あつて、第一は米比間協定のように米国が半永久的に相手国に駐留する権利を得る協定が結ばれる場合であり、第二は米国が相手国を占領したり、戦争終了後の管理上駐留する場合であり、第三は、同盟国ないし準同盟国との間に協定を結んで米軍が駐留する場合で、旧安全保障条約締結後の米軍のわが国における駐留はこれに当たること、第一の場合である米比間協定では「基地」という用語が用いられているが、第三の場合であるアメリカとヨーロツパ諸国及びカナダとの間で締結された北大西洋条約においては右用語は用いられていないこと、旧安全保障条約及びこれに基づく行政協定においては、意図的に基地の用語を用いることが回避され、「施設及び区域」という用語が用いられたのであることが認められる。確かに、他方において、前掲<証拠略>によれば、「基地」は特定の国の軍隊が他国の領土内に駐留する場合の根拠地ないし施設を指称する場合に一般的に用いられている用語であつて、わが国に駐留する米軍の施設及び区域を表わすものとして防衛庁発行の防衛白書等にも用いられていることが認められるが、前認定の旧安全保障条約締結の際の米軍駐留に関する取決めの経緯、条約における「基地」という用語の使用例及び本件原稿が高等学校社会科教科書における記述であることにかんがみれば、文部大臣が、旧安全保障条約に用いられた正規の用語である「施設及び区域」と記述すべきものとした検定意見は、生徒に誤解を生じさせないための教育的配慮に発するものということができ、したがつて、正確性(2)の観点からA意見を付したことをもつて著しく不当であるとすることはできない。

なお、教科書中に断わりなく「施設及び区域」の語のみを用いるときは、一般に用いられている「基地」との同一性につき、生徒に誤解を与えるおそれなしとしないが、文部大臣の意見の趣旨が原稿の記述中に注記として「基地」の語を加えることをも制限する越旨でないことは、昭和三八年度の合格本において「施設(一般には基地と言つている)」となつている(<証拠略>)ことによつても明らかである。

〔二八七〕<略>

〔二九三〕<略>

〔一五〕<略>

〔三一〕<略>

〔一〇三〕<略>

〔一一二〕<略>

〔一二〇〕<略>

〔一六四〕<略>

〔一八五〕<略>

〔一九二〕<略>

〔二五一〕<略>

〔二四三〕<略>

〔二五〇〕<略>

(二) 「内容の選択」における裁量権濫用の主張について

〔二〇〕<略>

〔三三〕<略>

〔五一〕<略>

〔五五〕<略>

〔一一九〕<略>

〔一二六〕<略>

〔一三四〕<略>

〔一三六〕<略>

〔一三七〕<略>

〔一四五〕<略>

〔一五〇〕<略>

〔一六二〕<略>

〔一八一〕<略>

〔一九五〕<略>

〔二〇三〕<略>

〔二〇五〕<略>

〔二〇八〕<略>

〔二〇九〕<略>

〔二二八〕<略>

〔二五三〕<略>

〔二五八〕<略>

〔二六〇〕<略>

〔二六二〕<略>

〔二六三〕<略>

〔二六四〕 戦争美化 (A) 二四四頁

(1) 区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、本件原稿の「戦争は『聖戦』として美化され、日本軍の敗北や戦場での残虐行為はすべて隠蔽されたため、大部分の国民は、真相を知ることもできず、無謀な戦争に熱心に協力するよりほかない状態に置かれた。」との記述に対し、文部大臣は、この記述においては、たとえば、「美化され」とか「日本軍の残虐行為」あるいは「無謀な戦争」などというように、全体として、第二次世界大戦におけるわが国の立場や行為を一方的に批判するものであつて、戦争の渦中にあつたわが国の立場や行為を生徒に適切に理解させるものとは認められない。このような記述は、学習指導要領の日本史の目標(6)「……史実を実証的、科学的に理解する能力を育て……」るという目標を達成するうえに適切でない、として、検定基準に照らし内容の選択(2)に欠けるものとしたことが認められる。

(2) 今次の大戦が、当時「聖戦」と称されていたこと、日本軍の敗北や戦場での残虐行為が隠蔽されていたため、国民の大部分はその事実を知ることができなかつたこと、以上の事実は、公知といえる事実であり、検定意見の意とするところは、要するに、戦争中におけるかかる現象は、多かれ少なかれ戦争当事国となつたいかなる国にもみられるところであるにもかかわらず、これを自国についていちがいに批判的立場からのみ記述することは、教育上の配慮として適切でなく、また、聖戦としての美化や敗北等の事実の隠蔽を国民の戦争に対する協力と結びつけるのは短絡的に過ぎ不適切である、とするものである。

ところで、戦場において多少とも残虐行為が生起することは、わが国の軍隊による場合に限るものではないことは、公知の事実といえるところであり、また、今次の戦争に至るまでの過程には極めて複雑な事情があるのであつて、これを総括的に「無謀な」と表現することについても問題がなくはないことについては、<証拠略>が存在するところである。このような事情からすれば、今次の戦争についての評価につき、批判的立場のみから記述する本件原稿部分を、心身の発達過程にある高等学校生徒の使用に供される教科書の記述として不適切であるとする検定意見は、教育的配慮の見地からみて相当といいうるから、文部大臣が、前記の趣旨により内容の選択(2)の観点からA意見を付したことをもつて、いまだ著しく不当であるとすることはできない。

〔二六五〕<略>

〔二八四〕<略>

〔二八九〕<略>

〔二九一〕<略>

〔七二〕<略>

〔一五五〕<略>

〔二五二〕<略>

〔一二〕<略>

〔五〇〕<略>

〔一三八〕<略>

〔二〇七〕 金色の菊の紋章 (B) 一八五頁

(1) 区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、本件原稿(さし絵説明)の「官法号外の表紙、金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している。」との記述に対し、文部大臣は、この記述は、大日本帝国憲法ののせられた官報号外の表紙の写真に付された説明文であるが、菊の紋章を使用することは、戦前においては、ひとり大日本帝国憲法にのみ特有のことではなく、郵便切手、収入印紙、紙幣、貨幣をはじめ、国家機関の公文書、建築物、兵器その他の物品について、広く行なわれていたところであるから、この記述はあまりにも主観的にすぎるのである。また、このような写真に、「威厳を示している」という説明を付することは、同憲法がことさらに威厳をもつて国民に臨んだ憲法であるかのような、一面的な理解に導き、同憲法のもつ近代的な側面を見失わせるおそれがある。このことは、学習指導要領の日本史の目標(2)「日本史における各時代の政治、経済、社会、文化などの動向を総合的にとらえさせて、時代の性格を明らかに……」する及び同(6)「……史実を実証的、科学的に理解する能力を育て……」るという目標を達成するうえに適切でない、として、検定基準に照らし内容の選択(3)に欠けるものとしたことが認められる(なお、「官法」が「官報」の誤りであるとの検定意見〔二〇六〕は控訴人もこれを争わない。)。

(2) <証拠略>によれば、戦前において皇室関係以外でも、(イ)兵営、鎮守府、在外大・公使館、地方裁判所以上の裁判所・税務監督局庁舎、軍艦、小銃等、(ロ)外国に対する重要文書、例えば批准書、大・公使信任状、委任状、旅券等、(ハ)政府の命をもつて全国に発行するもの、例えば貨幣、印紙、切手等については菊の紋章の使用が許されていたことが認められる。その上、大日本帝国憲法の発布によりわが国は専制政治の形態を脱却し、アジアで他の諸国に先がけて立憲政治の基礎を確立し近代国家の形を整えたものであり、その点において、右憲法が重要な歴史的意義を有するものであることは、前掲<証拠略>によつてこれを認めるに十分である(なお、わが国の立憲体制がアジア諸国に先がけたものである点については、前掲〔二〇八〕(内容の選択(2)の項)に説示したとおりである。)。しかるに、本件原稿の記述は、前掲<証拠略>に存する大日本帝国憲法の発布に関する本文の記述(右憲法の前認定のような性格を説明する記述は存しない。)と相まつて、これを読む生徒に行文上右憲法が威厳のみを基調とするものであるとの誤解を与え、同憲法の持つ近代的な側面を見失わせるおそれなしとしないことは、検定意見の指摘するとおりであると認められる。してみれば、文部大臣が、前記の趣旨により内容の選択(3)の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当とすることはできないものというべきである。

〔二七八〕<略>

〔二九七〕<略>

〔二六六〕<略>

〔三〇〇〕<略>

〔二八三〕<略>

(三) 「組織・配列・分量」における裁量権濫用の主張について

〔二五〕<略>

〔六五〕<略>

〔一一一〕<略>

〔一二一〕<略>

〔一四一〕<略>

〔一四八〕<略>

〔一八〇〕<略>

〔一八三〕<略>

〔一八六〕<略>

〔二一六〕 松井昇の絵 (B) 一九六頁

(1) 事実関係は、原判決五五八頁三行目から五五九頁二行目までの記載を引用する(但し、五五八頁三行目の「本件原稿」の前に「区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、」を加え、同末行から五五九頁一行目にかけての「組織・配列・分量」を「組織・配列・分量(2)」と、五五九頁一行目から二行目にかけての「は当事者間に争いがない。」を「が認められる。」と各改める。)。

(2) 検定意見の趣旨は、さし絵の説明である本件記述は、さし絵が描かれた趣旨と異なる説明内容である点で不適切というのであるが、<証拠略>によると、原題を軍人遺族図と題する本件さし絵は、日清戦争で戦死した軍人の遺族の絵であり、妻である若い未亡人が遺品を前に遺児二人を膝下に端座させて遺書を読み聞かせている図であるところ、その姿は痛ましくはあるが、それをなお乗り越えて行こうという未亡人の覚悟を示しているものであること、昭和一三年一二月四日付の朝日新聞には、「遺書を読み聞かせつつ軍国の子の覚悟のほどを諄々訓戒を与える若き未亡人の健気にも気高い姿……」との説明があり(<証拠略>)、昭和五四年発行の図書には、「遺品を前にした母親の意志的な顔が印象的……」との説明が付されている(<証拠略>)ことが認められる。本件のさし絵に対する右のような見方が存することからすると、本件原稿の記述は本件さし絵によつて表現されたところを必ずしも的確に説明しているものということはできないから、したがつて、文部大臣が、前記の趣旨により組織・配列・分量(2)の観点からB意見を付したことには相応の根拠があり、これをもつて著しく不当とすることはできないものであり、<証拠略>をもつてしては、右判断を左右することはできない。

〔二一八〕<略>

〔二三〇〕<略>

〔二四四〕<略>

〔二八八〕<略>

〔五六〕<略>

〔六〇〕<略>

〔二一二〕<略>

〔二一七〕<略>

〔二一九〕<略>

(四) 「表記・表現」における裁量権の濫用の主張について

〔一一〕<略>

〔一六〕<略>

〔三二〕<略>

〔四二〕<略>

〔八七〕<略>

〔一九九〕<略>

〔二三三〕<略>

〔二三六〕 委任統治 (B) 二一二頁

(1) 事実関係は、原判決五七〇頁八行目から五七一頁二行目までの記載を引用する(但し、五七〇頁八行目の「本件原稿」の前に区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば」を加え、五七〇頁末行から五七一頁一行目にかけての「表記・表現が不適切である」を「表記・表現(1)に欠けるものとした」と、同一行目から二行目にかけての「は当事者間に争いがない」を「が認められる」と各改める。)。

(2) <証拠略>中の英文による条規によれば、国際連盟規約第二二条に準拠して定められた「太平洋中赤道以北ニ位スル独逸国属地ニ対スル委任統治条項」には、委任統治の件につき、その前文に「a Mandate should be conferred upon His Majesty the Emperor of Japan」と、また、その第一条に「a Mandate is con-ferred upon his Majesty the Emperor of Japan」と表記されており、前掲<証拠略>によれば、外務省による公式の訳文として、右前文については「委任ヲ日本国皇帝陛下ニ付与スルコト」との、右第一条については「日本国皇帝陛下ニ付与シタル」との各訳文が付されていることが認められる(なお、控訴人は右<証拠略>につき、前文の部分を「委任統治権を日本の天皇陛下に委ねる」とする訳文を提出しているが、<証拠略>によつても明らかな「Confer」の語義に照らして正確でないというべきである。)。控訴人は、委任統治(Mandate)は国際法上の用語として使用されている名詞であり、「ゆだねられた」は動詞で全く別のセンテンスに属するから用語の重複はない、と主張する。しかしながら、本来委任統治の制度は、旧ドイツ領及びトルコ領について国際連盟の監督のもとに受任国が連盟の委任を受けて統治を行う制度であるが、国際連盟により創設された旧ドイツ領等の統治の制度として、委任統治以外の統治方式が別にあつたことを認めるに足りる証拠はない。そうすると、本件原稿記述の表現は数種の統治方式のうち委任統治の方式をわが国がゆだねられたという場合であるならば、用語の重複がないという余地があるとしても、そのような場合でない以上、国語としての用法上は検定意見のとおり重複を肯定せざるをえないと解される。控訴人主張の竪穴式住居に住むという用例は、竪穴式という種類のすみかに住むという意味であつて本件記述と用例を異にするし、犯罪を犯すという表現は罪を犯すとするのが正確というべきである。してみれば、文部大臣が、前記の趣旨により表記・表現(1)の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできない。

〔二八六〕 核兵器の洗礼 (B) 二六〇頁

(1) 本件原稿の「三たび核兵器の洗礼を受けさせられた日本人の間から……」との記述に対する検定意見は、被控訴人の主張によれば、「……核兵器の洗礼を受けさせられた……」という表現は、教科書に掲げるものとしては、通俗的にすぎて適切でない、というものであつたというのであるが、区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、検定意見は、「洗礼」という用語は国民感情として不適当であり、表記・表現(1)に欠けるとの趣旨であつたことが認められる。

(2) <証拠略>によれば、洗礼とは、本来はキリスト教において信者となるための儀式をいうものであることが認められるが、他方、右<証拠略>によれば、それは転じて、或ることについての(貴重な)経験をすることとか、その道に到達するために必ず受けなければならない経験、または、はなはだしい変革を被ることとかの意味にも用いられると説明され、その用例として、「原爆の洗礼を受ける」、「原爆の洗礼を受けた国」、「戦火の洗礼を受ける。」が挙げられていることが認められ、また、<証拠略>によれば、昭和二九年の衆議院議員の国会における質問、昭和五一年広島県発行にかかる「原爆三十年」と題する単行書の記事、昭和五三年八月九日に長崎市で行われた平和記念式典における平和宣言昭和五一年発行にかかる第五福竜丸平和協会編集の「ビキニ水爆被災資料集」と題する書籍に、それぞれ原爆ないし原水爆の洗礼を受けるとの表現が用いられていることが認められる。右事実関係によれば、「三たび核兵器の洗礼を受けさせられた」との本件原稿記述は必ずしも特異な表現とまではいえないものとも解される。しかしながら、一般に教科書においては、適正な言葉の使用が必要とされ、就中歴史教科書においては、歴史的事実を的確に児童・生徒に学習させるため、事実を客観的に表現する言葉の使用が要請されるとの被控訴人の主張は十分考慮に値するものというべきであり、現に同じ事柄を表現するのに、「広島・長崎についで三たび原水爆の被害を受けた日本国民の間から」との表現による高校日本史教科書(<証拠略>)も存在することが認められるところである。この見地からすると、本件原稿記述に用いられた「洗礼を受けさせられた……」との表題は、転用的用法であるため事柄を直截、明確に説明するものとはいえず、したがつて、文部大臣が、表記・表現(1)の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできないものといわなければならない。

〔七六〕<略>

〔八一〕<略>

〔一三〇〕<略>

〔一六五・一六六〕<略>

〔一八九・一九一〕<略>

〔二一三〕<略>

〔二一四〕<略>

〔二七〇〕<略>

〔一二五〕<略>

〔二八〕<略>

〔二九〕<略>

〔四八〕<略>

〔八八〕<略>

〔九〇〕<略>

〔九三〕 神皇正統記 (A) 七七頁

(1) 事実関係は、原判決四四四頁八行目から四四五頁七行目までの記載を引用する(但し、四四四頁八行目の「本件原稿」の前に「区分表対応欄掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、」を加え、四四五頁六行目の「表記・表現の適切を欠くものとした」を「表記・表現(3)に欠けるものとした」と、同七行目の「は当事者間に争いがない」を「が認められる」と各改める。)。

(2) <証拠略>によれば、北畠親房の著わした神皇正統記中には南朝を正統であると論述する箇所が存在すること、本件検定当時及びそれ以前から、同書は南朝ないし大覚寺統の正統性を主張することを目的としたとか、そのような趣旨の著作であると説く論稿ないし教科書が多く存在したことが認められる。もつとも、<証拠略>をも勘案すると、検定意見の趣旨は、本書が右のような性格をも有する著述であることを否定するものではないが、本書が、南朝の後村上天皇のため君徳涵養の目的で書かれたもので、皇位継承の経緯を説いた史論であるとの立場から、本件原稿記述を一方に偏した表現で不適切であるとしたものと解される。しかるところ、前掲<証拠略>によれば、本件検定当時において、神皇正統記の執筆の対象、目的については種々の見解が存在したが、同書は後村上天皇の君徳の涵養に供するために執筆された日本歴史の概説書であるという見解が有力学者によつて唱えられ、また、歴史辞典等においても同旨の説明がなされていたことが認められる。そうすると、右の趣旨に基づいて本検定意見が付されたことは、歴史上の事象を的確に記述することが求められる高等学校社会科教科書の特質からみて必ずしも不当とはいえないものというべきである。

なお、控訴人は、被控訴人が再度にわたり検定意見についての主張を変更したとして極めて恣意的であると論難するが、被控訴人が最終的に当初の主張を維持していることは、先にも述べたとおり、被控訴人の当審最終準備書面第三部(別添(八))によつて明らかであるから、右の所論は失当というべきである。

更に、控訴人は、本件原稿記述においては、南北朝の対立という叙述の筋の中で、その対立の中に客観的に位置づけるという観点から本書を取り上げたものであつて、本書の執筆の目的やその具体的内容いかんは控訴人の執筆の対象となつていないにもかかわらず、検定当局は控訴人の記述対象事項や文脈を全く顧慮することなく検定意見を付したものであり、本検定意見には、審査に当たり考慮すべき事項を考慮しないことによる裁量権行使の違法があるとも主張する。しかしながら、本件記述が一般書でない教科書におけるそれであることを考慮すると、叙述の筋に重点を置くことにより事柄の一面のみを捉えるにとどめるようなことは相当でなく、特定の書物を取り上げてこれに解説を加えるからには、その全体の内容について適切な説明を施すよう意を用いるべきことは、これを使用する高等学校の生徒に正確な理解を与えるうえから、教育的配慮上当然のものとして執筆者に要請されるところというべきである。

以上の次第であるから、文部大臣が、前記の趣旨により表記・表現(3)の観点からA意見を付したことには相当の理由があるものというべく、これをもつて著しく不当であるとはなしえない。

(3) なお、平等原則違反の主張については、のちに2において判断する。

〔一〇九〕<略>

〔一一五〕<略>

〔一二四〕<略>

〔一三三〕<略>

〔二五四〕<略>

〔二五六〕<略>

〔二五九〕<略>

〔二七五〕<略>

〔二七六〕<略>

〔二八五〕<略>

〔一四〕<略>

〔九五〕<略>

〔二八二〕<略>

(五) 「内容の程度等」「使用上の便宜等」及び「造本」における裁量権濫用の主張について

〔四三〕<略>

〔七三〕<略>

〔七五〕<略>

〔一三五〕<略>

〔一四七〕<略>

〔二四二〕<略>

〔二四七〕<略>

〔二七二〕<略>

〔二四〇〕<略>

〔五三〕<略>

〔二七四〕<略>

〔二〕<略>

〔四〕<略>

〔九〕<略>

〔一〇〕<略>

〔二七一〕<略>

〔一二二〕<略>

〔四七〕<略>

2  平等原則から導かれる裁量限界踰越の違法(その一 平等原則違反)の主張について

(一) 控訴人は、1の教科書検定法令に内在する裁量限界踰越の違法として裁量権の濫用を主張するに当たり、いくつかの検定意見指摘箇所については、これと併せて明示又は黙示に平等原則違反の主張をした。それは整理番号〔一九〕、〔三三〕、〔四二〕、〔四八〕、〔六一〕、〔九三〕、〔一一一〕、〔二〇九〕、〔二七三〕においてである。これまで当裁判所は、これらについては、それぞれの箇所における判断を留保してきたので、ほかに右の主張のされている四四箇所と合わせてここに判断を示す。

(1) 事実関係 <略>

〔一七〕<略>

〔五七〕<略>

〔五八〕<略>

〔六八〕<略>

〔六九〕<略>

〔七四〕<略>

〔八〇〕<略>

〔九一〕<略>

〔一〇五〕<略>

〔一〇八〕<略>

〔一一六〕<略>

〔一五二〕<略>

〔一五七〕<略>

〔一五八〕<略>

〔一七〇〕<略>

〔一七六〕<略>

〔二二二〕<略>

〔二二六〕<略>

3  平等原則から導かれる裁量限界踰越の違法(その二 行政行為の一貫性原則違反)の主張について

(一) 事実関係

(1) 同一記述による申請でありながら、昭和三八年度検定において、条件が付されなかつたとするもの

控訴人主張の一五箇所のうち、次に掲げる整理番号〔九六〕、〔二二九〕〔二四八〕及び〔二六八〕の四箇所(これらは一貫性原則違反のみを主張するものである。)を除く、〔六二〕、〔一七三〕、〔二一五〕、〔二九三〕については、いずれも1(一)正確性の項に、〔六五〕については、1(三)組織・配列・分量の項に、〔八一〕、〔一六五・一六六〕、〔一九一〕については、いずれも1(四)表記・表現の項に、〔六九〕、〔二二六〕については、いずれも2平等原則違反の項に記載したとおりである。

〔九六〕<略>

〔二二九〕<略>

〔二四八〕<略>

〔二六八〕<略>

(2) 従前合格したもの(検定済教科書)と同一記述の申請でありながら、検定意見が付されたとするもの

控訴人主張の二五箇所のうち整理番号〔一八八〕(これは一貫性原則違反のみを主張するものである。)を除く、〔二四〕、〔七一〕、〔二七三〕、〔二八一〕については、いずれも1(一)正確性の項に、〔一二〕、〔二〇〕、〔五〇〕、〔一三七〕、〔二二八〕、〔二五八〕、〔二六〇〕、〔二六二〕、〔二六三〕、〔二八三〕、〔二八九〕、〔二九一〕については、いずれも1(二)内容の選択の項に、〔一四八〕、〔二一六〕については、いずれも1(三)組織・配列・分量の項に、〔二八〕、〔一二四〕については、いずれも1(四)表記・表現の項に、〔八〇〕、〔一〇八〕については、2平等原則違反の項に、〔九六〕、〔二六八〕については、いずれもさきに本項に記載したとおりである。

〔一八八〕<略>

(二) 判断

(1) 昭和三八年度検定との対比をする(一)(1)の主張について検討するに、整理番号〔六二〕、〔六九〕、〔九六〕、〔二一五〕、〔二二六〕、〔二二九〕、〔二四八〕、〔二六八〕、〔二九三〕の計九箇所に関しては、被控訴人は控訴人の主張を明らかに争わない(昭和三七年度については検定意見が付されたとの限度で)ものと認められるので、これを自白したものとみなす。しかしながら、前掲<証拠略>によれば、〔六五〕については控訴人が昭和三八年度申請原稿において自らその記述を修正したことが、また、〔八一〕、〔一六五〕、〔一六六〕、〔一七三〕、〔一九一〕の計五箇所については、控訴人が同年度内閲本の提出に当たつて自ら修正したことがそれぞれ認められる。したがつて、これらの箇所につき、昭和三八年度検定において条件が付されなかつたのは、右理由によるものと認めるに十分であるから、右合計六箇所については、控訴人の主張はその前提を欠くものであつて理由がない。

次に、従前の年度と対比する(一)(2)の主張について検討するに、前掲<証拠略>によれば、整理番号〔一二〕、〔二〇〕、〔二四〕、〔二八〕、〔七一〕、〔八〇〕、〔九六〕、〔一〇八〕、〔一二四〕、〔一三七〕、〔一四八〕、〔一八八〕、〔二一六〕、〔二五八〕、〔二六二〕、〔二六八〕、〔二七三〕、〔二八一〕、〔二八三〕、〔二八九〕、〔二九一〕の計二一箇所は、書証として提出された本件教科書に先立ついずれも検定済の三訂版及び四訂版の記述(両者の記述はおおむね同じである。)に限つて見てみても、これらにおける表現と同一であるか、又は若干の違いはあるものの、その趣旨を同じくする記述であるにもかかわらず、昭和三七年度の申請(新訂版)に際しては検定意見が付されたものであること、しかしながら、〔五〇〕、〔二二八〕、〔二六〇〕、〔二六三〕の計四箇所は、右三訂版及び四訂版の記述と少なくとも重要部分において表現を異にしているため検定意見が付されたものであることがそれぞれ認められる。してみれば、右四箇所に関する限り、控訴人の主張はこれまたその前提を欠くものであつて理由がない。

(2) 以上によれば、右(一)(1)については、前掲の九箇所が、また、(一)(2)については同じく二一箇所が控訴人の主張にそうものということができる。

しかしながら、学界における当該事項・分野についての研究の進展や教育現場からの意見の反映等の結果、時日の経過に伴い、いかなる記述が教科書におけるそれとして適切であるかについての評価・見解に違いを生ずることは、事理にかなうものとして肯認できるところであるから、同一ないし同趣旨の記述であつても、年度によりこれに対する評定が異なつたからといつて、直ちに行政行為の一貫性に反するとして違法となるものでないのは当然というべきである。また先に第二の五で訂正引用した原判決の理由説示によつて明らかなように、検定における申請原稿の調査は、審査の公正を期するため、申請年度ごとに、著作者名、発行者名の明らかにされていない白表紙本によつて行われるのであり、このことから同一の原稿記述であつても、検定意見の付される箇所に多少の食い違いを生ずることにはやむをえない相当な事由が存するといえること、更に、検定済の教科書の記述には、検定意見が付されたにもかかわらず、B意見であつたため最終的に著者の判断によることとされたものが存在しうること(本件において、例えば、〔一〇〕の目次の配列については、前掲<証拠略>及び同箇所についての前説示の事実関係によれば、従来の配列は、偶数、奇数の両頁とも書初めを揃える形式によつていたところ、控訴人は昭和三七年度申請において、前記のように奇数頁については各行の末尾を揃える形式に改めて申請してB意見を付され、翌昭和三八年度の申請原稿においてもこの形式を維持したためB意見を付されたが、結局右形式が維持されたまま検定済の教科書として刊行されたことが認められるのであつて、前記三訂版、四訂版が検定済であるからといつて、それらの記述に対しB意見すら全く付されなかつたとはいえないのである。)等を考慮するときは、行政行為の一貫性を欠くことを理由とする違法の成否については、慎重な検討を要するものというべきである。

そこで本件についてこれをみると、前掲<証拠略>を総合すると、昭和三七年度において検定意見が付されながら、同三八年度においてこれが付されなかつた箇所は、前記のとおり九箇所であるが、これは、昭和三七年度に検定意見が付された三二三箇所(この点は、当事者間に争いがない。)中控訴人が違法事由を主張し、当裁判所が判断を加えた合計一八三箇所について見てみても、そのうち五一箇所は、控訴人が昭和三八年度の申請原稿において又はその後の過程で自ら修正を加えたから、これを除外した一三二箇所中の僅か九箇所に過ぎないのであつて、残りの一二三箇所については、再び引きつづいて検定意見が付されていること、また、従前の検定においては合格検定済とされたのに、昭和三七年度に意見が付されるに至つた前記二一箇所についてみると、翌昭和三八年度に検定意見が付されなかつたのは、前記九箇所に含まれている〔九六〕、〔二六八〕の二箇所のみであり、その余の一七箇所中控訴人自ら原稿記述を修正した〔八〇〕を除く一六箇所については、すべて引きつづき検定意見が付されていることがそれぞれ認められるのである。

以上、前段に説示したところと右事実関係によれば、本件においては、いまだ、行政行為の一貫性を欠くことを理由に違法とすべきまでには至つていないものと判断するのが相当である。

四  昭和三八年度検定における裁量権濫用の違法の主張について

控訴人は、昭和三八年度分二二(延べ三四)の指摘箇所(別添(三)及び(五)の一、二及び原判決別紙(1)一一頁ないし二八頁参照)については、白表紙本、内閲本の整理番号順に、かつ、白表紙本に対するものと内閲本に対するものとが重複する箇所については一括して検定意見の違法を主張するので、右の順序に従つて判断を示す。但し、右の指摘箇所中、〔重一〕、〔重二〕及び〔重三〕は、控訴人において、昭和三九年四月一二日に担当調査官から修正指示を受けた箇所の一部として主張するものであるが、同日担当調査官からの修正指示はなかつたと認めるべきものであることは、さきに第三の二において引用した原判決の理由説示のとおりであるから、右〔重一〕ないし〔重三〕に関する主張の当否については判断をしない。

なお、理由説示の要領は、昭和三七年度分について判示したところに準ずる。検定意見の当否についての判断の立場も同様である。また、各表題下のA・B意見の表示は、第五の二に判示したところに従い白表紙本、内閲本を通じ、最初の意見と再度の意見が意見区分を同じくするときは単に(A)又は(B)と表示するにとどめ、区分を異にするもののみ分別して記載し(〔重一一〕の判示参照)、その下に昭和三八年度白表紙本及び内閲本(乙第一二、第一三号証)における所在頁を示す。

〔一・重四〕<略>

〔二・重五〕<略>

〔三・重八〕 金色の菊の紋章 (B) 一九六頁

(1)  前掲<証拠略>によれば、本件原稿の記述(昭和三七年度〔二〇七〕と同一)に対し、文部大臣は、さきに認定した昭和三七年度申請原稿に対する同旨の理由により、検定基準に照らし内容の選択に欠けるものとしたこと、右の条件指示を受けた控訴人が右の記述を「金色の菊の紋章は天皇主権時代に公の文書や官庁などに、主権者の権威を示す目的で、しばしば用いられたものである。」と改めたうえ提出した内閲本の記述に対し、文部大臣は、修正した説明文と写真との間に関連性がないとの理由で、検定基準に照らし組織・配列・分量(2)に欠ける上に、右修正説明文によつても、白表紙本に付した検定意見の趣旨が達成されていないとの意見を付したことが認められ、控訴人が再提出した内閲本において、「金色の菊の紋章……」以下の文章を削除したことは、当事者間に争いがない。

(2)  白表紙本における原稿記述に付された検定意見の当否について、当裁判所は、昭和三七年度〔二〇七〕(三1(二)内容の選択(3))に示したところと同一の理由により、文部大臣が、内容の選択の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできないと判断するものである。また、内閲本における修正に対して付された検定意見については、修正後の説明文と本文の記述との間には直接の関連性がないだけでなく、金色の菊の紋章についての右説明文の内容では、いまだ白表紙本に対して付された検定意見の趣旨を達成しているものといえないことは、同意見指摘のとおりと思料される。してみれば、文部大臣が、内閲本に対しても、前記の趣旨により内容の選択と組織・配列・分量の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできない。

〔四〕<略>

〔五・重九〕<略>

〔六〕 松井昇の絵 (B) 二〇八頁

(1)  前掲<証拠略>によれば、本件原稿の「勝利のかげには、こうした犠牲者があつた。松井昇の作品。」との記述(昭和三七年度〔二一六〕を修正)に対し、文部大臣は、さきに認定した昭和三七年度申請原稿に対すると同旨の理由により、検定基準に照らし組織・配列・分量に欠けるものとしたことが認められ、控訴人が内閲本において右説明文を削除したことは、当事者間に争いがない。

(2)  本件箇所に対する検定意見の当否について、当裁判所は、昭和三七年度〔二一六〕(三1(三)組織・配列・分量(2)の項)に示したところと同一の理由により、文部大臣が、前記の趣旨により組織・配列・分量の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当とすることはできないと判断するものである。

〔七・重一五〕<略>

〔八〕 戦争美化 (B) 二五八・二五九頁

(1)  前掲<証拠略>によれば、本件原稿の、「日華戦争から太平洋戦争へと進むにしたがつて、(中略)あらゆる自由な文化活動は停止され、戦争を謳歌する軍国調一色に塗りつぶされた。特に新聞・雑誌の検閲が強化され、戦況の報道も大本営発表を取り次ぐだけとなつたので、国民は戦争についての真相を十分に知ることができず、無謀な戦争に熱心に協力するよりほかない状態に置かれた。」との記述(昭和三七年度〔二六四を〕一部修正)に対し、文部大臣は、第二次大戦のような最近の事件については、時間的経過が浅いので歴史的評価は避けてできるだけ事実をそのまま記述する必要がある、として、検定基準に照らし内容の選択に欠けるものとしたことが認められ(なお、前掲<証拠略>の記載もこれと矛盾するものではない。)、控訴人が内閲本において右原稿記述中「無謀な」の語を削除したことは、当事者間に争いがない。

(2)  <証拠略>を総合すると、日華事変から第二次世界大戦に至る経緯、過程には極めて複雑な事情があり、その歴史的評価はいまだ確たるものとなつていないことが窺われる。してみれば、文部大臣が、本件原稿記述を教科書におけるそれとしては適切でないとして、前記の趣旨により内容の選択の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできないものというべきである。

〔九・重一七〕 戦前の国家主義思想 (B) 二六六頁

(1)  前掲<証拠略>によれば、本件原稿の「新しい歴史教科書では、戦前の極端な国家主義の思想や非科学的要素を取り除くことにつとめ、神代の説話からでなく、石器時代から始まる日本の歴史を教えることとなつた。」との記述に対し、文部大臣は、この記述は、例えば、「戦前の極端な国家主義の思想や非科学的要素」とあるが、「極端な」というのであれば「戦前」というよりむしろ「戦時中」という方が適切であり、文章表現が的確でないと認められる、として、検定基準に照らし表記・表現に欠けるものとしたことが認められ、控訴人において、右記述を「新しい歴史教科書では、戦前の歴史教科書の編修方針が根本的に改められた。こどもたちははじめて神代の説話からではなく、石器時代から始まる日本の歴史を学ぶことになつた。」と改めたうえ提出した内閲本の記述に対し、文部大臣が再度意見を付したこと、その後再提出された内閲本において、控訴人は右記述を「新しい歴史教科書では戦前の編修方針が根本的に改められ、神代の説話からではなく、石器時代から始まることとなつた。」と修正したことは、当事者間に争いがなく、前掲<証拠略>によれば、右再度の意見は、表現がなお冗長であり、検定基準に照らし表記・表現に欠けるとするものであつたことが認められる。

(2)  控訴人は、本件原稿記述にいう「戦前」は第二次世界大戦の終結前の意義で用いたものであると主張するところ、<証拠略>を総合すると、「戦前」の意義については、現在刊行されている国語辞典における用語法の説明を含め、「戦争開始前、殊に第二次世界大戦の開始前」の意で用いられるとするのが一般であるが、近時は、第二次世界大戦の終結を境としてそれ以前を指す意味に用いられることも多いことが認められる。そして、白表紙本(<証拠略>)によれば、本件原稿記述は、「第一三章 国民主権体制の成立と戦後の文化」に属するものであるところ、同章の「1占領下の改革と文化活動の復活」と題する節は、ポツダム宣言受諾後のわが国における政治、経済、宗教、教育等における改革についての記述であり、これらの文脈及び前掲平田証人の証言に徴すれば、本件原稿記述中の「戦前」は、第二次世界大戦の終結前の意に用いられているものと認めるのが相当である。

ところで、わが国の右終戦前における国家主義の思想については、満州事変の勃発(昭和六年)以後日華事変の開始(昭和一二年)までの間においても、すでにそれが教科書上に現われていたことは、被控訴人の自認するところであるが、<証拠略>には、「満州事変以後国家主義による国民教育の統制が強力に進められ、当時は教学刷新、国体明徴が強調されるに至つており、教科書がその立場から修正され、あるいは新しく編集されたのである。満州事変の後昭和十二年(一九三七)には日華事変が起り、その後教育の統制はいよいよ強くなつた。(中略)国民学校の教科書は、(中略)時代が既に日華事変を経て第二次世界大戦に突入しようとする時期に編集されたものであり、したがつて内容は国家主義的色彩が濃く、軍事的傾向も強まつている。」と記述されており、また、前記証人平田嘉三は、明治三六年以来の教科書にはある程度国家主義思想が反映されているが、特に右思想が強く打ち出されるようになつたのは昭和一五年、一六年発行のいわゆる国定第五期の歴史教科書であり、昭和一八年発行の同第六期の歴史教科書では更にその傾向が極端になり、例えば、天照大神の神勅は国定第四期教科書では本文の中に簡単に書き下してあるに過ぎなかつたが、第五期教科書からは、本文から独立して目次の前に掲げられることになり、また、「八紘一宇」という言葉も第五期以降に現われるに至つたものである旨、以上の事情からして、極端な国家主義思想ないし非科学的要素が現われたのは、戦時中、すなわち日華事変勃発後終戦までの時期が主であるから、本件原稿記述の「戦前」の表現より「戦時中」とするほうがより適切である旨、それぞれ供述していること、以上の事実が認められる。右に記載したような証拠関係と当審証人浪本勝年の証言及び同証人の援用する小、中学校等に関する関係法令とを合わせ斟酌するときは、これと同旨の検定意見を不当とすることはできず、したがつて、文部大臣が、表記・表現の観点からB意見を付したことをもつて、著しく不当であるとすることはできないものというべきである。

次に、修正後の記述にもなお冗長の嫌いがあることを否定できないことは、検定意見の指摘するとおりであり、右記述に比し再提出された内閲本の記述の方が行文の簡明さにおいて勝つていることは明らかであるから、文部大臣が、前記の趣旨により内閲本に対し再度B意見を付したことをもつて、著しく不当とすることのできないことはこれまた明らかというべきである。

〔一〇〕<略>

〔一一・重一八〕<略>

〔一二〕 基地 (A) 二七四頁

(1)  前掲<証拠略>によれば、本件原稿の記述(昭和三七年度〔二八一〕と同一)に対し、文部大臣は、さきに認定した昭和三七年度申請原稿に対すると同旨の理由により、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことが認められ、控訴人が内閲本において、右記述中の「基地」を「施設(一般には基地と言つている)」と修正したことは、当事者間に争いがない。

(2)  本件箇所に対する検定意見の当否について、当裁判所は、昭和三七年度〔二八一〕(三1(一)正確性(2)の項)に示したところと同一の理由により、文部大臣が、前記の趣旨により正確性の観点からA意見を付したことをもつて、著しく不当とすることはできないと判断するものである。

〔一三・重一九〕<略>

〔一四・重二〇〕<略>

〔重六〕<略>

〔重七〕<略>

〔重一〇〕<略>

〔重一一〕<略>

〔重一二〕<略>

〔重一三〕<略>

〔重一四〕<略>

〔重一六〕<略>

五  結語

これまでの検討の結果により、本件各検定処分における検定権限濫用の違法をいう控訴人の主張は、すべて理由がないものとして、排斥を免れない。

第七結論

以上の詳細な検討に基づく説示から明らかなように、当裁判所は、控訴人のあらゆる主張を考慮しても(上来説示したところのほか、控訴人が縷々主張する点は、右説示の趣旨に抵触するものとして、格別の判断を加えるまでもなく、すべて採用できない。)、本件各検定処分当時における教科書検定制度並びに本件各検定処分及び各指摘箇所についての検定意見の提示ないしその内容に違憲違法の廉があるものとは認められないと判断するものである。したがつて、右違憲違法の存在を前提とする本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、すべて理由がないとして排斥を免れないものというべきである。

してみれば、原判決中、控訴人の請求を棄却した部分は正当であるから、控訴人の本件控訴を理由なしとして棄却すべく、控訴人の請求の一部を認容した部分は不当であり、この点に関する被控訴人の附帯控訴は理由があるから、右部分を取り消した上、右取消しにかかる請求部分を棄却すべきである。よつて、訴訟費用の負担につき、民訴法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 鈴木潔 吉井直昭 河本誡之)

訴訟代理人目録(一) <略>

訴訟代理人目録(二) <略>

指定代理人目録 <略>

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